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礼拝メッセージより
説教題:「審判」 2000年11月19日 聖書:ヨハネの黙示録 20章1-15節
サタン
3年半が終わると、次の千年が始まる。「悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜」。それは諸国の民を惑わすもの。そのサタンは一人の天使によって取り押さえられ、底なしの淵に投げ込まれ、鍵をかけられて封印をされ、千年間縛られてしまう。
この竜によって民は迫害を受け、苦しみを受けたというのに、なんともあっけない捕まり方。天使に対しては、それはつまり神に対してでもあるけれども、何とも無力なものでしかない。
殉教者
竜が閉じこめられている千年の間、イエスの証と神の言葉のために殺された者たちは、キリストと共に統治するという。殉教者だけがこの時に生き返ってキリストと共に千年の間統治するという。3年半の間、かの竜が獣を使って最後のあがきによって人々を苦しめるが、その後の千年間は底なしの淵に閉じこめられるというのだ。しかし千年の間のことがらはたったの4-5節しかない。3年半の間のことがらは何章もあったのに。
千年の後
しかし千年経つとサタンは牢から解放されるというのだ。そしてゴグとマゴグを惑わそうとして出ていく、という。このゴグとマゴグはエゼキエル書38-39章に出てくる。マゴグは黒海とカスピ海の間にある土地のことでゴグはそこの王の名前だそうだが、そこには、神は終わりの日に、ゴグを究極的な悪の権化として立ち上がらせ、その後神の主権と栄光を示すために彼を滅ぼすと書かれている。つまり終末の戦いで滅ぼされるべき神の民の敵を表している。
そして千年の後にサタンは地上にいる諸国の民とゴグとマゴグを厚め、最後の戦いを挑んでくると言う。しかしこれはもう戦いと言うほどのものでもない。彼らは聖なる者たちの陣営と愛された都とを囲むが、そこで天から火が下ってきて彼らを焼きつくす。そして彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれる。
天からの火によって彼らはやっつけられてしまう、つまり神の力によって滅ぼされてしまうということだ。
勝負はもうとっくについている。神の勝利はもうずっと前に決定しているからだ。イエスの十字架における死によって神は決定的な勝利を収めているのだ。だから悪魔の負けは決まっていることがらであるということだ。最後の悪あがきをすることは許されているにすぎないということだ。
審判
最後の裁きでは、天も地も逃げてしまうという。そして命の書やいくつかの書が開かれ、死者たちはそれぞれの行いに応じて裁かれる。海も死も隠府も死者を出した、なんて書いている。そして死も隠府も火の池に投げ込まれる。
神の御前からは死も隠府もなくなってしまうということのようだ。
命の書
すべての者がこの裁きの前に立っている。そしていくつかの書に記されているそれぞれの行いによって裁かれる。しかしその書の中の一つに命の書がある。この命の書について13:8には「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは・・・」とある。つまり命の書には天地創造の時からその名が記されているということだ。
最後の裁きにおいて、命の書に名が記されていない者は火の池に投げ込まれた、とある。しかしその命の書には、天地創造の時から名が記されているというのだ。私たちは私たちの行いによって裁かれる。がしかしそれだけではなく命の書に名があるということをも考慮に入れられるということだ。そしてその命の書に名があるということだけで、火の池に投げ込まれることはないということだ。つまり行いによらないで私たちは救われる、ただ命の書に名があるというだけで、ただ神の恵によって救われるということだ。
神の支配
最後には死も隠府も火の池に投げ込まれるという。私たちはいつかは死ぬことになっている。しかしその死も最後には神によって火の池に投げ込まれるというのだ。私たちは最後に死に捕らえられてしまうというわけではないのだ。その死をも神は滅ぼし、死からも私たちを解放するというのだ。
裁きは恐ろしいものである。しかし神の裁きは悪を徹底的に滅ぼすという裁きなのだ。
苦難
当時の教会の人たちは迫害を受けたり受けそうになっていたりしている状況であった。ローマの皇帝を礼拝しないことで裁かれるようなこともあっただろう。しかし最後の最後には神が悪を裁き完全に取り除くのだということをこの黙示録から教えられているということだろう。
自分たちが直面している苦しみも、それは神が敗北したからでもなく、神が無力だからでもなく、ただ神が悪魔に最後の悪あがきをすることをゆるしているからにすぎないということだ。
もうすでに神は勝利しているのだ。屠られたような小羊によって、つまりイエスの十字架の死によって神はもう勝利しているのだ。すでに勝利し、やがて全ての悪を滅ぼす、その神を見上げて信じていこう、今の苦しみは滅びへと続く苦しみではなく、やがて栄光へとつながる苦しみである、だから苦しみの中にあっても、安心してこの神を信じて従っていこう、そうヨハネは教会の人たちを励ましているのだろう。
神は全てを支配している。火の池さえも神の支配のもとにあるのだ。神の支配の及ばないところはどこもないのだ。だから私たちが神の支配の外にこぼれてしまうなんてことは決してないのだ。どんなときにも神は私たちを支えていてくれる。だからこそまたこの神に聞いていきたいと思う。支えられていることを生かされていることを喜んで毎日を過ごしたいと思う。
苦しいことも悲しいことをあるけれども、どんなときにも共にいてくれる神を見上げていきたいと思う。