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礼拝メッセージより
説教題:「悔い改め」 2000年11月12日 聖書:ヨハネの黙示録 16章1-21節
神の怒り
神の怒りが地上に注がれる。
最初のものは獣の刻印を押されている人間たち、獣の像を礼拝する者たちに対するものであると書かれている。つまり皇帝礼拝をする者たちに対する怒りである。彼らには悪性の腫れ物ができる。またその後には海が死人の血のようになる、水が血になる、太陽が人間を火で焼く、闇に覆われる、川の水がかれる、稲妻、雷、大地震、雹。
出エジプトの時の災いに似ているものも多い。出エジプトの時にも、かえる、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、膿の出る腫れ物、雷と雹、いなご、暗闇、初子の死があった。終末の時には出エジプトであったようなことが起こるであろうということだ。
出エジプトの災害はイスラエルの民をエジプトから救い出すためのものであった。それは恐ろしい出来事であったがそのことでイスラエルの民は救い出されていった。終末の時にも、神は怒りを地上に注がれるという。しかしそれは悪を裁くためのものであり、それは正しいものを救い出すためのものでもあるということだろう。
そしてここではローマ帝国に対する神の怒りが語られているということだ。獣の刻印を押されている者に対する怒り、皇帝を礼拝し、また皇帝礼拝を強要する者たちに対する怒りであるということだ。そんなローマ帝国に対する神の怒りが地上に注がれるというのだ。
悔い改め
悔い改めない人の姿が出ている。
神の怒りを前にすれば当然悔い改めるのではないかという気がする。しかしここに登場する者は逆に余計に神を呪い冒涜する。でも実際は人間とはそういうものかもしれない。自分に都合のいいことが起こるときにはそれは自分がすばらしいからだと思い、都合が悪くなるとそれは神がそんなことをしたからだと思う。そして神を呪う。いいことは自分がしたからで、悪いことは何でも神のせいだと思う。結局は自分が悪かったとか自分が間違っていたということは考えない。だから悔い改めることをしない。自分が間違っていても、それを正すことが出来なくなってしまう。結局そういうことなのかもしれない。
日頃感謝出来ない者は、自分を吟味し悔い改めることもできないのかもしれないと思う。
しかし私たちはは自分がどうなのか、ということを見つめる心が必要だろう。そして自分が間違っているかもしれないということを考える余裕が必要だろう。それは自分が罪人であることを認めるということでもあると思う。私たちは言うならばいつも悔い改めないといけない生き物だと思う。いつも間違う生き物であるのだ。そのことを認めることだ。自分は正しい、正しくなった、と思うところに悔い改めない心が芽生えてくる。悪いのは誰かのせい、神のせいということになってしまうのだろう。
だからいつも御言葉によって自分を吟味する必要がある。
ハルマゲドン
それはメギドの山という意味だろうという説がある。メギドとは昔から大きな戦いがあった場所だそうだ。しかしそこは平野であって山はないそうだ。
とにかくハルマゲドンとは神と悪霊との最後の戦いの場所である。よくハルマゲドンのことを最終決戦とか言って、とても恐ろしいことが起こる時のような言い方をする。地球が滅びてしまう時とか人類滅亡の時、というような、この世の終わりに、自分たちがとても耐えられないような恐ろしいことが起こる、というような言われ方をする。しかし聖書の言うハルマゲドンとは神と悪霊との最後の戦いの場所であるのだ。神が悪霊に勝利する最後の戦いの場所であるということだ。神が悪をやっつける戦いであるということ、つまり神を信じる者には神が完全に勝利するという希望の時であるのだ。
目を覚まし
15節で、「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身につけている人は幸いである」と言われている。衣を身につけている人、つまりそれは神を信じているもの、信仰を持っている者ということのようだが、神を信じている者は幸いであるという。最終的な神の勝利が目前に迫っているからだ。
しかし神から私たちを遠ざけてしまういろいろなものが実際に存在する。13節には偽預言者というような言葉が出てくる。人を神の言葉から遠ざけてしまうようなものということだろうか。いろんな迷信とか占いとかいうものが人を縛り付ける。神の言葉よりもそっちの言葉の方に捕らわれてしまうことがある。神の言葉を聞いて安心し喜ぶよりも、それ以のいろんな言葉に惑わされ不安にされることがある。
苦しみに会うときはなおさらだろう。なぜこんな目に遭うのか、なぜこんな病気になるのか、なぜ自分ばかりがこんなことに、と思う。何が悪かったのかと原因を知りたいと思う。
大学の時に脳性麻痺のやつがいた。彼のところにどこかの宗教が勧誘に来て、あなたがそうなったのは先祖のせいだ、と言われたそうだ。
何か悪いことが起こると、先祖が何かをしたからだとか、先祖を供養していないからだ、というようなことをよく聞く。そんな風に自分が悪いから、自分の先祖が悪いからこうなった、と言われるととても不安になる。
何が悪かったのか、何が間違っていたのかとその原因を知りたいと思う気持ちは強い。そしてこれのせいだ、あれのせいだ、あそこが悪い、ここが悪いといういろんな声に流される。そして苦しみの上に余計に悩みが増えてしまうなんてことになる。いつの間にか神の声からはずいぶんと遠いところにいってしまう。
苦しみの中にあるときにも目を覚ましている者は幸いであるという。そんな時にも神の声を聞くことが出来る者は幸いであるということだ。苦しみの原因なんてのはそう簡単に分かるものではない。私たちは原因をしろうとすることに一所懸命になる。原因が分かることで対処できることならばそれもいい、しかしわかったからといってどうしようもないことも多い。
原因が何であるかということよりも、苦しみの中にあってどう生きるかが問題だ。苦しみの原因が分からなくてもそこで神の声を聞いていくことができることは幸いなことだ。苦しみの中にあっても、神の愛を受けて生きていくことは幸いなことなのだろう。いろんな声が聞こえてくる中でも、神の声をしっかりと聞いていくことが大事なことだ。どんなときにもどんな苦しみにあるときにも、神が共にいてくれる、聖書はそう告げる。
私たちは、お前が悪いからお前の先祖が悪いからそうなっているのだ、と言う声に従うのか、それとも苦しみの中にあっても私はあなたと共にいる、あなたを愛しているという声を聞いていくのか。
天と地を支配している神の声をしっかりと聞いていきたいと思う。