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礼拝メッセージより
説教題:「惑わす者」 2000年10月29日 聖書:ヨハネの黙示録 12章1-18節
神話
不思議な物語である。が似たような話しはいろんなところにあるそうだ。ギリシャ神話の中にもあるらしい。アポロ神の母レトは、生まれたばかりのゼウスの息子を殺そうとした大蛇ピュトンから逃れてデロス島に身を寄せた。アポロは殺されずにすみ、デルフィへ戻り大蛇を殺した。ヨハネはそういった神話の登場人物を置き換えて新しい物語にしている。
天上での戦いがあったことを語るが、それはこの時代の教会員の状況を説明するためのものである。
天上の出来事
一人の女はマリア、女の産む男の子がイエス・キリストを意味していると解釈することもできる。太陽や月や星の冠が出てくるが、ほとんど飾りのようなもののようであるが、12の星ということでイスラエルの12部族をということを示しているのだろう。そうするとイスラエル民族ということになるかもしれない。
子どもはメシアを意味する。そしてこの子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた、という。詩編2編の7節以下の所に、新しいイスラエルの王がそのように「鉄の杖で彼らを打」つと書かれている。つまりこの子はイスラエルの王であるメシア、キリストであるということだ。そしてこの子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられたという。もともとの神話には子どもが玉座につくというようなものはない。つまりそれはヨハネがあえて神話に付け加えたことがらである。つまりイエスは死んで玉座に引き上げられた、イエスの死は王として即位するということであったということだ。イエスの死は敗北ではなく勝利なのだということだ。
竜はこの子どもを食べてしまおうとしていたが、子が勝利して玉座にあげられたので女を追っていった。竜は年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者、と言われている。サタンとはもともとは告発者というような意味の言葉らしい。つまり私たちのことを神に告発する者、というようなことを意味しているようだ。10節に、告発する者が投げ落とされた、とある。
その竜とミカエルとの戦いが起こり竜は負けて地上に投げ落とされた。ミカエルはイスラエルを守る天使であるとされていて旧約聖書にも登場する。天上での戦いでミカエルは勝利した。このところではイエスのかわりにミカエルが登場する。しかし結局は神の側が竜に勝利するということで、ミカエルの勝利はイエスの勝利でもある。天においてイエスは竜に完全に勝利している。そしてその勝利はイエスが死ぬことで玉座に引き上げられたことによる。イエスの死が天上での勝利につながっている。イエスの死は悪に対する勝利なのだ。十字架の死はいかにも無力な敗北のように見える出来事である。しかしそれは天においては竜に対する、悪に対する完全な勝利であるということだ。
天上では竜の居場所はもうない。天上ではもう決着がついたということだ。天ではもう決着がついてしまっているというのだ。イエスの勝利が決定したということだ。
竜は地上へ投げ落とされたと知り、男の子を産んだ女を追った。しかし女には蛇から逃れる自分の場所が用意されていてそこに逃げた。蛇は口から水を吐き出して女を流そうとするが大地が女を助けた。そこで竜は女に対して激しく怒り、子孫の残りの者、つまり神の掟を守り、イエスの証を守り通している者たちと戦おうとして出ていった。つまりそれは今迫害され苦しみに会っている教会の者たちの所へきた、ということだろう。
竜
竜は天上での戦いに敗れている。負けたから地上へと落ちてきた。しかしだから今の自分たちの苦しみがある。しかしそれは所詮神との戦いに負けた竜による苦しみである。竜は神に敗れた者でしかないのだ。最後の悪あがきをしているにすぎないということだ。私たちの今の苦しみも、それは竜の悪あがきによるものでしかないということだ。私たちはその竜に支配されてしまっているのではない。竜は現実に私たちを苦しめてはいる。しかし私たちは神に支配されているのだ。竜よりも強い、竜を敗ってしまった神に支配されているのだ。竜は残された時が少ないと知ったから悪あがきをしている、というのだ。だからこそその短い時を堪え忍んでいこうとヨハネは教会を励ましているのだ。
有限
竜による苦しみは無限に続くのではない。1260日、それは1年を360日とすると3年半となる。「一年、二年、また、半年の間」というのと同じことを指している。3年半とは7年の半分。7は黙示録では完全数ですべてを意味する。その7の半分ということで、無限ではなく有限であるということを意味している。つまり今のこの苦しみは永遠に続くのではなく、やがて終わるということだ。
状況
当時の教会の状況は、迫害はあるけれどもまだ本格的、組織的な迫害が起こる前であったようだ。しかし本格的な迫害が迫ってきていると感じられるような状況であったらしい。もうじき本格的な迫害がやってくる。しかしそれは悪魔が勝利したためではないということだ。竜が地上に落とされることで起こる迫害だということだ。竜が天上での戦いに敗れて地上に落とされることで起こる迫害であるということだ。だから決して神が敗れたわけではない、イエスが敗れたわけではない、イエスの死が無駄になったわけではない、イエスの死は決定的な勝利なのだ、というのだ。神は完全に勝利している、だから迫害のなかにあってもその神に従っていこう、しばらくの苦しみがあるかもしれないが、堪え忍んでいこうということだ。勝利の神は私たちを見捨てることはない、だからこそ神を見上げていこう、ということだ。
期待
竜が最後の悪あがきをするときにも、兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証の言葉とで彼にうち勝った、という声が天で聞こえる。兄弟たちは小羊の血、すなわちイエスの死によって勝利した、そしてまた自分たちの証の言葉で竜にうち勝った、というのだ。最後の戦いを挑んでくる竜に対して、兄弟たちは証の言葉で勝利したというのだ。神を信じる信仰によって、イエスの言葉にしっかりとつながることで、イエスの死によって自分が赦され、イエスの死が完全な勝利であることを信じることで兄弟たちは竜との戦いに勝利した。命を懸けてその信仰を捨てなかったということだろう。
そういう風に勝利した者たちが、今なお地上で苦しみにあっている迫害されている者たちにとって兄弟であるということだ。だからこそその兄弟たちと同じように竜に、サタンに勝利しようということだ。
水
当時のような迫害は今はない。しかし今の私たちにとっても、私たちを神の言葉から引き離すようなことがらはいろいろとあるだろう。
今現実に私たちを押し流そうとする川のような水は何なのだろうか。神の言葉、イエスの言葉から私たちを引き離そうとする力は何なのだろうか。聖書を読み、御言葉を聞く時にも、その言葉から私たちを引き離すさまざまな思いがある。神の言葉を大事にさせない事柄がある。
神の言葉を聞いても、そんなことできない、そんなのは理想論だ、私には関係がない、あの人だってやってないじゃないか、なんてことを思う。隣人を愛せ、と聞いていても、愛するよりも責めることばかりしてしまう。愛するよりも間違いを指摘することに熱心になる。
あるいは私はお前を愛しているという神の言葉をどれほど聞いているだろうか。お前が大事なのだという声をどれほど聞いているだろうか。神が愛してくれていることを喜ぶよりも先に、あれをしなければ、これをしなければいけない、あれもこれもできてない、私はなんてだめな人間だろう、と思うことの方が多いのではないか。
もっともっと聖書の言葉を聞いていかねばならないのではないか。もっともっと噛みしめないといけないのではないか。そんな風に思う。