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礼拝メッセージより
説教題:「小羊」 2000年10月15日 聖書:ヨハネの黙示録 5章1-14節
玉座
ヨハネが天上の出来事を見せられている中の状況である。
玉座に座っているのは神。巻物は終末。その封印を解くということは終末の出来事が起こるということ。
苦しみにあっている教会にとってその苦しい状況がずっと続くということは大変なこと。その苦しみが終わるときがやってきて欲しいと願う。つまり終末が早く来て欲しいと願う。神の裁きの時、神がすべてを整えるとき、またそれは神に従う者にとっては祝福の時でもあるが、その時が来て欲しいと願う。
この巻物の封印が解かれることでその終末がやってくるというわけだ。ところがヨハネにはその封印を解いて、巻物を開くのにふさわしい者がどこにも見つけられなかった。封印を解くことの出来る者がどこにもいないということは終末の出来事が起こらない、終末が来ない、今の教会の苦しみも終わらない、ということになる。そこでヨハネは激しく泣いていた。
獅子
するとそこにいる長老がヨハネに声をかけた。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」。
ユダ族から出た獅子、つまりライオン、ダビデのひこばえ、ひこばえとは切り株から出る新しい芽のことだそうだが、そう言われる方が封印を開くことが出来るという。そしてこれはキリストを指す言葉であるそうだ。つまりキリストがその封印を解き終末をやってこさせることができる、今の苦しみから解放してくれる時を来させることができるというのだ。
小羊
しかしヨハネが天上で見たキリストは屠られたような小羊であったというのだ。勝利を得た獅子と言われる方の有り様は、屠られたような小羊であるというのだ。
私たちの目には、この世においては人の言いなりになり、いいようにあしらわれ、十字架につけられ殺された何とも無力なキリストである。しかしそのキリストが終末まで支配している方である、勝利の獅子であるというのだ。
この小羊には7つの角と7つの目があったという。7とは黙示録では完全を意味する数字、7つの目が全地に使わされている神の霊である、ということは、神の力と支配、キリストの十字架の救いが全世界に及んでいるということを意味しているらしい。
讃美
そして小羊が巻物を受け取ったとき、天上では讃美の歌が聞こえてきた。
讃美は、玉座の近くにいる四つの生き物と24人の長老にはじまり、そのまわりにいる多く御店氏たち、またすべての被造物へとひろがっていった。
讃美の内容は、キリストこそが終末の主であるということ、キリストはご自分の血によって人々を贖い、彼らを神に仕える者としたということ。そして、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、賛美を受けるにふさわしい方だ、ということだ。
余談だが、ヘンデルの作曲したメサイヤという歌の最後はアーメンコーラス。そのアーメンのすぐ前が今日の箇所、この賛美の歌となっている。
しかし讃美とは一体なんなのか。讃美歌は毎週歌っているがそれを歌うことは何なのか。何をそこで歌っているのだろうか。辞書を調べてみると讃美とは、
・神の無限なる性質と神への絶対的な信頼である。
・神の恵みに対する信仰者の応答であり,感謝のささげ物である
・神の偉大さと,その至高善の人格とを認めること
・すべての栄光は当然神に帰属するものであると認識し,これを告白すること
・賜った恵みへの感謝
ということらしい。神を神と認めること、全てを支配している神を見つめること、神をしっかりと見上げること、その神に信頼すること、それが讃美ということのようだ。
キリストこそ讃美を受けるにふさわしい方と言われている。キリストが神であり、私たちの全てを全世界を支配している方、私たちが信頼すべき方、信頼して大丈夫な方であるということだ。
苦しみのまっただ中にある者にとってもそのキリストを見上げること、全てをご存じで全てを支配しておられるキリストをしっかりと見つめることをヨハネは教えられているということだろう。そして教会に対してもそのことを勧めている。どんな苦しみの中にいても、私たちはキリストを見上げることが出来る、信頼するに足る方がそこにいてくれているというのだ。苦しみや悩みの中にあっても、しかしそれは神から見捨てられてしまったということではないのだ。そこでも神の支配の中にあるのだ。神のみ手の中にあるのだ。ひとりぼっちではないのだ。
真っ暗闇の中にたたずむしかないような思いになることもある。そこから抜け出す力も勇気もなくしてしまうこともある。しかしそんな時にもキリストを見よ、キリストを讃美せよ、と言うのだ。そんな時にもキリストがいるのだ。
ひとりぼっちであるということほど辛いことはないのではないかと思う。失敗しても挫けても落ち込んでもキリストが共にいてくれるのだ。私たちは苦しみ自体を見つめるあまりに、そしてその苦しみのおおきさに圧倒されて神をキリストを見失うことがある。しかし私たちが見失ったようなときにも、私たちが苦しみ倒れてしまうような時にもキリストが共におられるのだ。
倒れてしまったときにも、倒れていない時のも神をしっかりと見上げ、キリストをしっかりと見つめよう。それこそが讃美することであり、またそれは礼拝するということでもあるのだろう。黙示録はもともと礼拝の時に読まれるものなのだそうだ。礼拝とはしっかりと神を見上げる時、しっかりと神を見つめる時なのだろう。
私たちはいろんな問題を抱えて生きている。いろんな苦しみや悲しみを抱えて生きている。そんな問題や苦しみや悲しみに埋もれてしまいそうなところで生きている。それらに押しつぶされそうな中で生きている。しかしだからこそ神をしっかりと見つめるときが大事なのだ。礼拝することが大事なのだ。礼拝は休んではいけないから来るものではないと思う。神をここでしっかりと見つめ、神にしっかり信頼していく時、それが私たちにとって掛け替えのない大事なものである、だから礼拝が大事なのだ。
ご自分の血によって私たちを贖ってくださったこの小羊を、キリストを私たちも讃美し礼拝していきましょう。全てを支配しておられる、そしていつも今も私たちと共にいて下さるキリストをしっかりと見つめていきましょう。