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礼拝メッセージより
説教題:「戸口に」 2000年10月8日 聖書:ヨハネの黙示録 3章14-22節
ラオディキア
銀行の中心地、毛織物の町、特に黒い羊の毛で織った布地で有名であった。また弱視者のための目薬を輸出していたことで知られる。
この箇所では、「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる」とあるように、イエスがそのように言っているのだと告げる。
なまぬるい
ラオディキアに近いヒエラポリスには有名な温泉があり、これも近くのコロサイには冷たい飲料水の水源があった。
「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」(16節)というのは、そういう背景があるらしい。つまり温泉の熱さがぬるくなってしまってはその価値は減ってしまうし、冷たい飲料水がぬるくなってしまってもその価値が減ってしまう。そのものの持っている特質が失われることでその価値が減ってしまうように、キリスト者のキリスト者らしさが失われることでその価値が減ってしまうということだ。熱いのは熱心で、ぬるいのが中途半端、冷たいのがすっかり信仰もなくした者、ということではない。中途半端よりは何もない方がいい、という事ではないということだ。黙示録では、イエスが「私はあなたを口から吐き出そう」という激しい言葉となっている。
原因
ではどうしてイエスの口から吐き出されようとしているのかということであるが、それは「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」からであるというのだ。
自分はなんでも十分持っている、これ以上必要なものは何もない、お金もいっぱい持っている、知識も十分ある、しっかりとした信仰も持っている、何が正しいかもよく知っている、これ以上学べないといけないようなものもない、とあなたは言っているが、実は自分の実際の姿が解っていない、ということのようだ。つまりあなたはあらゆる物を十分に持っていると言って自慢しているかもしれないが、実は何も持っていないというのだ。
買いなさい
ならばどうすべきか。それは、「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」と言うのだ。わたしから買うように、つまりイエスから買うようにというのだ。銀行の中心地であり、黒い羊の毛織物の産地であり、目薬を輸出していたラオディキアの人たちに向かって、火で精錬された金を、白い衣を、目に塗る薬を買うようにと言うのだ。
自分たちが十分持っているものではない、イエスの持っている金、白い衣、目薬を買うようにというのだ。あなたたちは、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者なのだという。自分ではそれがわかっていないがそうなのだというのだ。
だから熱心に努め、悔い改めよと言う。自分がいっぱい持っているから安心するというような生き方ではなく、イエスから受ける生き方、イエスと共に生きる生き方へと方向転換しなさいというのだ。つまり持ち物に頼る生き方ではなく、イエスに頼る生き方をしなさいということだろう。
戸口に
イエスは、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と言う。イエスは自分の声に応えて心の戸口を開けるならば、その中に入っていくというのだ。イエスが心の中に入ってきてくれるというのだ。
またこの言葉は神を知らない、イエスを知らない人に対する言葉ではない。ラオディキアの教会の人への言葉なのだ。
神を信じていない人に対して、イエスを心に迎え入れなさい、というすすめの言葉なのかと思っていたがそうではないらしい。むしろ、私は信じている、ちゃんとイエスの声を聞いている、大丈夫、と思っている教会の中の人たちに対する言葉なのだ。あなたは一体何を頼りに生きているのか、どうして自分の姿が見えないのかと言っているようだ。私はもう信じている、物も知識も信仰も十分持っている、何も足りないものはない、と思っている人にむかって、あなたこそイエスの声を聞きなさい、イエスの声を聞いてイエスを迎え入れなさい、イエスの声に聞いてイエスと共に生きなさい、と言われているようだ。
なまぬるさ
前半で熱いとかなまぬるいとか冷たいとか言われているが、熱いというと何となく熱狂的になるというようなイメージがあるがそうではなく、イエスにしっかりとつながっている、イエスの声をしっかりと聞いているということだ。キリスト者とはイエスの声を聞きイエスにつながりイエスと共に食事をする者ということだ。それこそがキリスト者らしいこと。そして結局はそれは神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛することだ。
なまぬるいとはイエスの言葉に聞くことをしないということだ。自分はこれだけ持っているから大丈夫、と思う、あるいは逆に物がないからどうしようもないのだ、と思うことかもしれない。目に見える物のことにばかり心を奪われてしまうということだろうか。そしてイエスのことを外に追い出してしまっているということだろう。
あるいはまたイエスの言葉に聞くよりも、自分が満足できるかどうかを優先する、自分がどれほど愛しているかよりもどれほど愛されているかを問題にする、なまぬるいとはそんな生き方になっているということなのではないかと思う。
自分
私たちも物をいっぱい持つことで安心する。そして持ち物のことは気にはするが自分自身のことは案外あんまり気にしていないのかもしれない。自分自身のことを真剣に見つめるってことは案外難しいのかもしれない。自分のダメさや罪深さや不甲斐なさを見つめるというのは結構しんどいものだ。できればそんなことにはなるべく触れたくないと思う。そんなこと考えたくないと思う。そんなものにはなるべくふたをしてそれなりにまあまあやっている自分を演じておいた方が無難なように思う。そしてなんとなくいつも本当の自分を隠してしまう。神に対しても案外本当の自分を隠していたりするのではにかと思う。イエスに入ってきてもらうには散らかりすぎているから入ってもらうのはちょっと困る、と思っているのかもしれない。イエスにだって本当の自分を知られることが怖いと思うようなところもあるのかもしれない。イエスの言葉は聞こうとは思う、その言葉に従っていこうとは思う。けれどもイエスの声は聞いても戸を開けていない、イエスを中に招き入れていない、一緒に食事をしていない、というのが案外私たちの実体なのかもしれない。
イエスは戸を開けるものがあれば中に入って共に食事をする、という。イエスは一緒に食事をしようとして戸口に立っているというのだ。なのに私たちはイエスに私たちの自分のありのままの姿を見られることを恐れているのではないか。自分自身も見たくないような自分の姿をイエスにも見られたくないと思っているのではないか。それでイエスを心の中に入れないことになってしまっているのかもしれないと思う。
しかしイエスは戸口に立っているという。戸が開くのを待っているのだ。私たちの心の中にも入りたいというのだ。一緒に食事をしたいというのだ。イエスは私たちを責めるために、私たちの間違いを指摘するために、糾弾するために戸口に立っているのではない。食事をするためなのだ。私たちと親しい交わりを持とうとして、楽しい時を過ごそうとして待っているのだ。