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礼拝メッセージより
説教題:「希望」 2000年10月1日 聖書:ヨハネの黙示録 1章1-8節
ローマ帝国
時代は1世紀末。ローマ帝国が支配していた時代。パレスティナで戦争が起こった。この戦争はローマとユダヤ教反逆者の戦いということだったらしい。その後ユダヤ教徒とユダヤ人キリスト者が移民や難民としてアジアにやってきた。アジアにはユダヤ人が以前から住んでおりかなりの力を持っていて、ローマからもある程度認められている存在だった。
またローマは皇帝を神として崇拝するようにという命令を出すようになっていったが、ユダヤ人には、皇帝のために祈るということで、皇帝に祈ることはしなくてもいいという特例を認めてもらっていたそうだ。キリスト者の多くも当初はユダヤ人が多く、自分たちもユダヤ教の一派であると思い、ローマもそのように認めていた。しかしこの戦争を機に、ユダヤ教としては改めてユダヤ人とは何者か、ということを吟味することになった。
しかしキリスト教は次第に異邦人へも伝道し、ユダヤ人だけの宗教ではなくなっており、何よりイエスをキリストと認めるということはユダヤ人にとっては受け入れられないものだった。ユダヤ教としては反逆者がローマと戦ったことによって自分たちの立場を明確にする必要に迫られ、異端的なものを排除することになった。
キリスト教は、肉を食べ血を飲むという噂があったり、そもそも反逆者であったイエスを神とあがめているというようなこと、あるいは社会的に差別され抑圧されている者が多かったことなどから、非国民と見なされ危ないグループという風に見られていた。ユダヤ教の傘の下に入れてもらえているときには、皇帝崇拝をしなくとも認めてもらえたキリスト教だったが、ユダヤ教ではないとなると途端に危機にさらされることになる。
64年にローマで大火事があったときに、時の皇帝ネロはキリスト者を放火罪で告訴し、逮捕し、その中の多くの者を処刑できたのはそういった背景があったからのようだ。そんなことから社会的には部外者とみなされていて、しばしば社会的・経済的な差別を受け、常に緊張し、いろいろな攻撃にさらされていた。皇帝崇拝を強要される中で、ただ真の神のみを礼拝するということで皇帝を崇拝しないということは大変なことだ。
黙示録
ヨハネの黙示録はそんな時代の教会へあてた手紙である。形としては黙示文学と言われるもので表現は映像的なことが書かれている。怪獣のようなものが登場するようなことが書かれているがそれらも何かを象徴的に表していることだと思う。黙示録が将来怒るであろう歴史的な事柄を予告しているのではないか、という風に言われることがあるが多分そういうことはないと思う。
いろんな迫害や差別、攻撃にさらされている教会に対する励ましの手紙、それがヨハネの黙示録だ。
キリスト
そしてこのヨハネの黙示録の中心がやはりイエス・キリストである。黙示録の著者は終末がもうすぐやってくると語る。終末は何もかもがなくなり崩れてしまう時、ということではなく、イエス・キリストが再び来られる時である。この世の悪と不正をただされる時でありそれは私たちにも恐れを起こさせる。しかしそれは神がこの世界に罰を与えるための時というよりも、この世界を整え、神が完全に支配する時ということだろう。そしてその時イエス・キリストは再び来られるという。そしてその時はもうすぐだというのだ。もうすぐイエス・キリストが来られる、だから今の苦しいときも堪え忍んでいこうという励ましの手紙、希望の手紙それがヨハネの黙示録だ。
黙示録の冒頭にはイエス・キリストのことが書かれている。
キリストは生きている。それが黙示録のメッセージ。
キリストのことが「今おられ、かつておられ、やがて来られる方・・・証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」(4-5節)、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」」(8節)と言われている。
アルファとはギリシャ語のアルファベットの一番始めの文字、オメガは一番最後の文字。つまり最初から最後までの方、最初から最後まで支配しておられる方であるということだ。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なのだ。
私たちの信じている神はそのような方なのだというのだ。やがてまた来られ全てを整える方、最初から最後まですべてを支配しておられる方、そのキリストを私たちは信じているというのだ。そしてそのキリストがやがてまた来られる、雲に乗って来られるというのだ。だからどんなときにもこの神をキリストを信じていこう、キリストの言葉に従って生きていこうというのだ。
苦しみ
現実にはいろんな差別や迫害がある中に生きているキリスト者たちであったようだ。神を信じれば、祈ればその苦しみが消えてしまうというものでもない。依然として苦しみはある。変わらない現実を前にして、変わらない苦しみを前にして、それでも信じるということはどういうことだったのだろうか。彼らはそこで一体何を見ていたのだろう。
私たちは苦しみばかりを見つめ、苦しみばかりに縛られているのかもしれないと思う。目に見える大変さに目を奪われ見えない大事なものをすっかり見なくなってしまっているのかもしれません。
当時の教会の大変さはどんなだったのでしょうか。今の教会よりもきっとずっと大変なことだっただろう。黙示録を読むとき、なんだか訳の分からない文章で一体何を言っているのだろう、と思うことが多い。しかしそれだけではなく、当時の状況を少しでも想像しながら読んでいけたらいいなと思う。そして当時の教会の人たちが何を見つめていたのかということを考えていきたいと思う。
キリストを信じるということが命の危険にさらされるというような状況であったらしい。もしキリストを信じることでこの世の状況が変わり、自分たちが金持ちになるとか、権力を持つようになることを望んでいるとしたら、そんな信仰はとても続きはしないだろう。
彼らはキリストを信じることに喜びを得ていたのではないか、信じること自体に喜びを持っていたのではないか、と思う。信じることによって何か得なことがあるからということではとてもやっていられないような状況だったのではないかと思う。キリストを信じているというそのこと自体が喜びだったのではないか。だからこそ命の危険のある中でも耐えてきていたのではないかと思う。
そして黙示録でもそのキリストのことが真っ先に言われている。私たちが信じているのは、初めから終わりまで全てを支配しておられるキリストなのだと言うのだ。そしてキリストはやがて全てを整えのやってこられる、だから苦しみの中にあるけれどもイエス・キリストを信じる信仰をしっかりと守っていこうというのだ。
キリスト自身が苦しまれ十字架で処刑された。いかにも無力な様で処刑された。しかしそのイエスを父なる神は復活させ、やがてまた来られるというのだ。苦しみのまっただ中にある当時の教会の人たちにとっては、自分の目の前をキリストが歩いているように思えていたのかもしれない。そして彼らは神の祝福を見つめていたのかもしれないと思う。この世の祝福はないかもしれないが、そして多分ないのだろうが、その先にある神の祝福を見つめていたのではないだろうか。ただ神と共に歩む、キリストと共に生きる、そこに彼らは喜びを見いだしていたのではないかと思う。それは私たちが見失っていることかもしれない。