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礼拝メッセージより
説教題:「忍耐」 2000年9月24日 聖書:ペテロの手紙二 3章8-18節
来臨
十字架で処刑されたのち復活したイエス・キリストはまたやってくるという約束をされた。それがいつなのかは分からない。時々何年何月に終末がやってくると言う人が現れるが、イエスはそれは神以外誰にも分からないことだと言われている。最初の教会の人たちはその終末がもうすぐやってきて、イエスがまた来られるという気持ちを持っていたらしい。最初の教会の人たちは、自分が生きている間にそうなるという気持ちを持っていたらしい。もうすぐイエスが来てくれるのだから、いろんな苦しい時にもイエスの教えに従って生きていこう、迫害されたりつらいことがあっても堪え忍んでやっていこう、という気持ちがあったらしい。
ところがなかなかその時がやってこなくなると、イエスはまだまだやってこない、終末はまだまだ先ではないかという声が起こってきたらしい。中には終末なんてのはないのではないかという者も現れてきたようだ。終末にどうなるのか、ということはよくわからない。「その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。」なんて書かれているがこれ見てもわかるような分からないような。福音書などにも終末のことはいろいろと書かれている。天変地異が起こるようなことが書いてあったりする。しかしとにかくその時には神がすべてを整える時のようである。裁きの時とか報復の時というようなことも書いている。そんな裁きの時がやがて、それも間近に迫っているということからも、神の教えに忠実に生きていこうという気持ちを持っていたらしい。しかしその時がずっとずっとさきならば、それほど一所懸命にしなくても、ということになる。本当は終末なんてのはないのではないか、と気持ちになると、もうどうでもいい、ということになってしまいそうだ。
我慢の限界?
つらいこともいつまで我慢すればいいと分かっていれば結構頑張れる。腹の調子が悪くて下痢するときに、トイレにつくまで我慢するのは大変つらいものだ。しかしあそこにトイレがあるからあそこまで我慢すれば、と思うときと、どこにトイレがあるのか分からなくて、いつまで我慢すればいいのか分からないままに我慢するのとはずいぶんとつらさが違う。そんなことを思うのは私だけか。
当時の教会も少数派でつらい苦しいことも多かったようだ。やがて主がまた来られるということでそのつらさに耐えていた、とするならばその時がなかなかやってこないということは大変なことだ。早く来い来いイエスさまってところだろう。
遅い
手紙の主は、主が遅いのは主が忍耐しているのだというのだ。それもひとりも滅びないで皆が悔い改めるようにと忍耐している、だからまだ主は来ないというのだ。それはそれでいいとしよう。しかしそのために苦しみの中にある自分たちも忍耐しないといけないというのか。ということになってしまいそうだ。
自分だけ
当時の教会は苦しい状況であったらしい。圧倒的少数派でありいろんな迫害もあったようだ。だからこそ早く再臨があってほしい、早くイエスに来てもらってこの苦しい状況を終わりにして欲しいと思っていたのだろう。
そんな苦しい時、人は自分のことしか考えられなくなりそうだ。当時の教会の人たちも自分のことばかりを心配していたようだ。自分の苦しみがなくなることばかりを願うあまりに、自分以外の者のこと、自分の教会の外の者のことには関心がなくなってしまっていたのかもしれない。
手紙の主は、再臨がなかなか来ないのは、みんなが悔い改めるように、ひとりも滅びなくなるようにと神が忍耐しているのだ、という。この手紙は、自分が救われているから早くその新しい完全な神の支配の時が来て欲しいと願っている教会の人たちに、その他大勢の者たちのこと、教会の外にいる人たちのことに目を向けさせる手紙でもある。
正義
終わりの時には、義の宿る新しい天と新しい地とがやってくるという。しかし神が終末を、イエスの再臨を忍耐して遅らせているという。
神が正義を行うことを遅らせているというのだ。悪を裁き正しい世界にすることを忍耐をもって遅らせているというのだ。それは私たちの救いのためであるというのだ。私たちが神を知り、神の愛を知り、神の赦しを受け入れるようになることを待っているというのだ。神は正義を行うことよりも、私たちが神を知り神の声に聞いて従うようになることの方を大事にしているというのだ。神は私たちの罪を裁き、この世界から悪を取り去ることよりも、私たちを愛することの方を大事にしているというのだ。
関与
苦しみの中にいる者にとってはその状態が早く終わってしまうことを願う。その苦しみがいつまで続くのかということを知りたいと思う。またそのことを神に祈る。しかしその状態が変わらない時、神は一体自分のことをどう見ているのかと思う。無力感に襲われる。神に見捨てられてしまったかのように思えてきて、頑張る力も失せてくる。
このときの教会の人たちも相当に頑張っていたのだろう。終わりが近いことで頑張ってきたのだろう。しかし終わりがなかなか来ないことで不安になってきていたのではないか。この苦しみは一体いつまで続くのか。イエスの再臨がずっとないとなるとどうなってしまうのか。この苦しみに耐えられるのか。そんな不安があったのではないか。
そんな時に、人間は自由に生きていいというようなことを言う者が現れた。もっと自分の欲望に従って欲望のままに生きてもいいんだというようなことを言ったらしい。彼らは昼間から宴会をし、ふしだらな生活をするようになっていたらしい。終末はずっとずっと先なのだ、あるいはそんなのは本当はないのだということを言っていたようだ。彼らは自分の欲望に従って生きることが自由に生きるいい生き方だ、というようなことを言っていみたいだ。しかし自分がどうか、自分の気持ちがどうか、自分の欲望がどうか、ということを問題にしている。自由を謳歌しているようである。しかし自分のことだけを考えて生きる生き方は結局は行き詰まってしまうだろう。
自分のしたいことをすることができるということは確かに嬉しいことである。しかし周りの人との関係を抜きにして、ただ自分の欲望に従って生きるということは一見自由なようであっても実は深みにはまってしまっていくことになるのだと思う。周りの人との交流があるということでの喜びは、自分勝手に生きることよりもよっぽど大きい喜びである。また周りの者との関係がなくなることは安定がなくなる生き方でもある。誰かの役に立つことができる、ということの喜びと安定は自分勝手に生きることでは得られないものだ。
どこかの国では犯罪を犯した少年にボランティアを命じると聞いたことがある。ボランティアをした者は、ただ鑑別所に入れられた者よりも再び犯罪を犯す率はずっと低いと聞いたことがある。ボランティアをすることで自分が人の役に立つことを知ることで喜びと安心感を得るのだろう。人はそんなふうに周りの人との関係を持つことで喜びを得、安心して生きていける。
そして何よりも神との関係の中で安心して生きていける。苦しみの中にあることは大変なことだっただろう。しかしそれは神に見捨てられてしまったからではない。苦しみにあることで、神との関係を疑うような時もあるだろう。神の言葉に従うよりも欲望のままに生きることの方が魅力的に見えることもあるだろう。しかしそんな時でもしっかりと神に聞いていくように、世界の全てを支配しておられる神に従うようにとこの手紙は勧めている。
神に聞き従うことこそが17節に出てくるように、堅固な足場の上に立っているということなのだ。あなたがたはその堅固な足場に立っているのだ、だからその足場を離れてしまうことがないようにというのだ。
神は全ての者がその堅固な足場に立つ生き方をするように忍耐して待っているという。勝手気ままにわがままに生きている者たちが自分の声に聞くようになるようにと待っているというのだ。それは教会がそのような人たちに神の言葉を伝えるようになることをも忍耐して待っているということだ。