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礼拝メッセージより
説教題:「愛を加える」 2000年9月17日 聖書:ペテロの手紙二 1章1-11節
加える
またまた愛の話である。聖書には愛と言うことばかり。そんなこともう分かっているよ、毎週毎週聞いているんだしと思う。
「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
自分と隣人との関係、また自分と神との関係に関することがらがいわれている。つまり自分と隣人との、また自分と神との正しい関係を持つようにということ。最終的には愛の関係を持つようにと言う。
人は隣人がどうあろうと自分がどうであるかが大事である、という思いがあるように思う。隣人との関係を大事にすることよりも、隣人よりも正しくあること、誰かよりも立派であること、誰かよりも金持ちで評判が良いことを目指すようなところがあるのではないか。つまり飽くまでも自分がどうであるか、自分がどう成長したか、自分がどう立派になったかということに関心が向いている。
しかし聖書は自分がどうであるかということよりも、隣人との関係がどうであるか、ということを問題にしている。隣人との愛の関係があるかどうか。隣人を愛する対象としているかどうかということを問いかけている。私たちは隣人を愛する対象として見るよりも、むしろ競争相手であったり、間違いを責め合う非難し合う関係であったり、ただ一方的に教えてやったり、一方的に教えてもらうというような主従関係であったりすることが多いのではないか。
テレビでよくアメリカのホームドラマをやっている。もちろんアメリカが何もかもいいということではないが、それを見ていると子どもが結構しっかりとものを言う。私はこう思う、ということを2,3才位の子どももちゃんとしゃべる。大人もその子どもの言うことをとてもよく聞いている。親でさえも自分の子どもの言うことをよく聞いている。もちろん何もかも子どもの言いなりになるということではないが、親がこうしなさいと言うような時でも子どもの言い分をしっかりと聞いてからしている。そして子どもの言うことをとても尊重しているように見える。アメリカの家庭がみんなそうだとは思わないが、自分のことと比べると随分違うなあと思う。子どもに対してただ一方的にこうしなさい、こうしては駄目だ、というばかりだ。そしてなかなか言うとおりにしないと脅しをかけていく。子どもの言い分を聞くことが本当に少ないと思う。いつも親から一方的に指図するばかり。一方通行な関係になっているように思う。
子どもに対してだけではなくそんな一方通行な関係が多いのかもしれないと思う。この人からは一方的に教えてもらう、この人には一方的に教えてやる、そんな関係になりがちではないか。どこにも愛する関係がなくなってしまっている。愛し合うという関係がなくなってしまっている。
正しさ
また愛することよりも自分の正しさを求めることが多いのではないか。
自分が正しいと思えるとき、相手よりも絶対正しいと思えるとき、私たちは正しさを主張し相手を責めたくなる。たとえば相手が何か悪いことをしたときなど、相手の悪をただただ責める。お前はこんなに悪いんだ、こんなにひどいことをした、なんてことをしたんだ、なんてことを言う。私はそんなことはしない、私はちゃんとこうしている、と言いたくなる。それにひきかえお前はなんなのだと言う。間違っている、おかしい、と声高に言いたくなる。
しかしそんな時、言われている方は、その通りだ私が間違っていた悪かった、なんて普通思わないだろう。偉そうなことばかりいいやがって、と思うくらいではないかと思う。自分が正しい位置に立って間違いを責めている時、そこに愛はあるのだろうか。
私たちは自分が間違わないこと、へまをしないことというようなことに対してはとても気を使う。あるいは周りからどう見られるだろうか、悪く見られはしないだろうかというようなことにはとても敏感だ。何か失敗しへまをすることで減点されてしまうかのような気になっているのだろうか。自動車免許の試験では間違ってしまうとどんどん減点されるが、人生にもそんな減点があるような気になっているのかもしれないと思うときがある。減点されるとマイナスになることもある。教習所で練習してたときにマイナス170点とか言う奴がいた。人生でマイナス100点となるとちょっと悲しいかな。
そんなふうに自分の点数を気にすることにばかり熱心になりすぎているのかもしれないと思う。教会でもへましてはいけないなんて思うことが多い。礼拝の司会をするときに順番を間違えてしまった、と言われる人がいっぱいいるけどそんなことは全然気にすることはない。そんなの少々間違えたって全然構わない。そんなことよりも隣人を大事にできているかどうか、特に新しい人たちを大事に出来ているかどうか、その方がよっぽど大事なことだと思う。礼拝の順序を間違ったって全然構わない、でも新しく来た人に声をかけることもないとするとそれは大問題だと思う。自分が礼拝を順序正しくすることよりも隣人を愛することの方がよっぽど大事なことだ。自分が礼拝をしっかり守ろうとすることで、隣人のことを放っておいているとしたらそれは問題だと思う。
自分が間違いなく落ち度なく何でもこなすことよりも、隣人を大事にし愛することの方がよっぽど大事なことだ。自分の正しさを求めるよりも、自分が100点を取ることよりも隣人を大事にする事の方がよほど大切なことだ。自分がいかに聖書を知っているか、どれほど神を信じているか、それはもちろん大切だ。しかしどれほど聖書を知っていても、どれほど固い信仰を持っていても、隣人を愛することをしていないならばそれは何にもならない。
Tコリント13章「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」とある通りだ。
自分が何を持っているか、自分がどれほど正しいか、そんなことよりも愛することが大事なのだ。隣人との愛の関係を持つことの方が大事だ、というのだ。
イエス・キリストを知る
イエス・キリストは、ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものをわたしたちに与えてくれた、という。イエス・キリストは全てのものを私たちに与えてくれた。そしてまた私たちのすべてを受け止めてくれた。私たちの罪も咎も間違いも失敗もだらしなさも駄目さも何もかも受け止めてくれた。そういう風にして私たちを自分のものとしてくれているのだ。
私たちの全てを赦し私たちの全てを受け入れてくれた。だから信仰に徳を徳に知識を知識に自制を、自制に忍耐を、忍耐に信心を、信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさいと言う。イエス・キリストが私たちを愛し、受け入れてくれたように、私たちもそのように互いを愛し受け入れよということだろうと思う。
愛
徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、そして愛を持っているもの、その者がイエス・キリストを知るようになると言う。イエス・キリストを知っている者は愛を持っている者と言うことだ。イエス・キリストを知っているかどうか、それはこの神の愛を持っているかどうかということだ。
Tヨハネ4:20「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とある通りだ。
イエス・キリストを知る者、イエス・キリストを信じる者、それは愛する者だということだ。ただ信じますと言っている者がキリストを知っているのではなく、隣人を愛する者こそがキリストを知っているのだ。愛さない者は近くのものしか見えない、そして自分の罪が赦されたことも忘れていると言う。自分が赦されたものであることを忘れ、自分が自分の力で立派になったような気になっているということかもだろうか。
私たちは自分が思っているほどにはキリストを知っていないのかもしれないと思う。自分ではイエス・キリストを信じている、イエス・キリストを知っていると思っている。バプテスマ受けたんだから当然知っていると思っている。でも実際どれほど知っているのだろうか。もし知っていないならばどうすればいいのか。そして自分も隣人を愛することをはじめることだ。愛することでイエス・キリストを知ることができる。