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礼拝メッセージより
説教題:「賜物」 2000年9月10日 聖書:ペテロの手紙 一 4章1-11節
品行方性
教会は清く正しい人が行くところだと思われているらしい。だから私には関係がないと思っている人が大勢いるようだ。また、礼拝もクリスチャンだけが行くところだと思っている人も大勢いるみたいだ。初めての人が行ってもいいんですかと言うことを時々聞く。ということは今まで行ったことないから、関係者がいないから行けないと思っている人も大勢いるということだろう。誰が来てもいいんだ、ということさえも教会はみんなに知らせていないということのようだ。
クリスチャンになることで行いが変化し正されるのだろうか。確かにそうなる人もいるかもしれない。正しくなるかどうかは別としても、以前とは違うことをするようになり、依然していたことをしなくなるということはある。しかしそのことによってそれをいぶかしがる者がこの手紙の時代にいたというのだ。当時は偶像礼拝と、不品行な行いとが密接に結びついていたそうだ。だからクリスチャンになることでその不品行から解放されるという面があったようだ。しかしそのことでその人を阻害することもあったらしい。神を知ることで真理を知り新しい生き方をはじめる。けれどそのことで阻害されることがあるというのだ。
人は周りと同じことで安心することがある。そんな面がある。先月のバプテスト大会で同じ誕生月の人を探してその月ごとに集まるゲームがあった。そして後で司会者が1月から順番に、1月生まれの人、2月生まれの人と呼び、みんながはーいと答えた。なんとなく同じ月生まれというだけで仲間意識のようなものがあった。同じ町の出身とか、同じ学校の出身とか、いろいろと同じことがあると仲間のような気になる。そしてそんな仲間がいることで安心する面がある。そしてその仲間から外れることを恐れる。この時代も、神を信じるということで、神の言葉に従って生きるということで仲間から外されてしまうということがあったようだ。
最近のいじめや、グループで誰かを襲うような犯罪でも、誰かがやめようと言えばやめたいと思っていたという話をよく聞く。本当はこんなことはしたくないと思うようなときでもみんながしているからなかなかそれを止められないということがある。自分だけ違うことをするということに対する抵抗感がある。そのことでみんなから疎外されるような心配がある。
日本のクリスチャンは人口の1%にも満たない。まわりはほとんどクリスチャンではない。その中でクリスチャンであり続けるということは大変なことだ。多数派に合わせていることの方がよっぽど楽。この社会の中で自分の立場、自分の考えをはっきりさせることは大変なことだ。この手紙の当時もいろんな軋轢があったことだろう。しかしそんな中でも神を見上げ、神の声に聞いてそれぞれに示された道を歩みなさい、自分に託されているつとめを果たしていきなさいと励ましている、この手紙はそんな手紙でもあるようだ。
賜物
自分と同じことをしなくなったとか、自分と違うことをするようになった、ということでかつて仲がよかった人が友達でなくなった、という人もいるかもしれない。教会に行くようになったから、ということで陰口をたたくようになった人もいるかもしれない。しかしそういう人の機嫌を取ることよりも、まずは神から託されたつとめを果たしなさい、ということだ。仲間はずれを恐れて周りに合わせ続けるよりも、仲間はずれになっても自分の正しいと思うこと、自分のしようと思うことをすることが大事だ。
私たちは人の顔色をうかがって生きている面がある。その度合いは人それぞれだろうが、これをしたら人がどう思うかということが自分が何をする時のひとつの基準になっている。僕自身も誰かに文句を言われないように、悪く思われないようにということが自分の行動の大きな基準だった。文句を言われることは悪いことであるように思っていた。今もその傾向はある。しかし人はみんなそれぞれ違うわけで、同じことをしてもある人は喜び、ある人は文句を言う。人がどう思うか、ということばかりを気にしていると結局は何もしないことが一番いいことになってしまう。そうすれば文句も言われにくい。何もしてないじゃないかということは言われるかもしれないが、どうせ文句を言われるならしないで言われた方が楽だしそれはもう仕方ないと思う。人によく思われるため、人に文句を言われないためということばかりを考えることで、結局は自分で自分を縛り付けてしまって、そこには何も出来ない、何をしていいか分からない自分が出来上がってしまっている。
最近、人に迷惑をかけないことが大事なことだというような話をよく聞く。確かに迷惑はかけない方がいいのかもしれないが、人に迷惑をかけないためには結局は人との交わりを絶つしかないと思うのだ。人との交わりを持つ中で迷惑をかけないでいられるはずはないと思う。ならば迷惑をかけないことではなく、迷惑をかけなければ生きていけない人間なんだということを分かってその上で生きていくことが大事なのではないかと思う。俺は迷惑はかけてない、というような思いで生きている人が実は一番迷惑になっているような気がする。
では一体何を大事にして生きていけばいいのか。結局は神に聞いていくということだろう。7節では「思慮深くふるまい、身を慎んでよく祈りなさい」と言われている。まずは祈ることだ。祈ることとは、自分の願いを神に言うことでもあるが、それだけではない。あのことを自分の願いどおりに変えて欲しい、あの人をこんな人にしてほしい、ということを神にお願いすることが多いのだが、それよりも祈ることとは神の声を聞くことである。祈ることで自分のなすべきことを知る。自分の進むべき道を知る。そして神は愛しないと言う。
愛
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさいと言う。まず愛し合いなさいなのだ。愛は全てに先行する。私たちは相手がどうであるかということを吟味する。優しい人か、厳しい人か、そして特に自分に対してどうなのか、自分に対して優しくしてくれるか、自分のことを分かってくれるか、自分を愛してくれるかどうか、ということを吟味して、そういう人であれば愛そうかな、と思う。自分の気に入った人には優しくしようと思う。しかし自分に優しくない人、自分のことを分かってくれない人のことは愛さない。却って憎んだりする。
愛は多くの罪を覆うとまで言う。愛したってどうにもならない。悪いのはあいつなのだからあいつを罰しなければ、懲らしめねばならないと思う。愛することよりもまずあいつを正さねばと思う。しかし実は愛は多くの罪を覆うと言うのだ。
私たちは正しくあることを求めすぎているのかもしれないと思う。間違いがあってはいけないのだ、と教えられてきた。間違いがあればそれを一所懸命に正そうとする。自分の間違いも、誰かの間違いもそれをまずは正さなければという気になる。あれはおかしい、あいつは間違っているということを真っ先に思う。教会に対しても、教会はこうあるべきだ、これが教会の正しい姿だ、というようなことを求めすぎているのではないか。しかし聖書は一貫して愛しなさい、愛し合いなさいと言う。正しさを求めるよりもまず愛し合いなさいと言う。不平を言わずもてなし合いなさい、と言う。互いにもてなすようにと言うのだ。
出来る者が出来ることを
また奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさいという。神が与えてくれた力に応じてとはどれ位なのだろうか。どんなことなのだろうか。小耳に挟んだ話によると、どこかの教会の方針は、出来る人が出来ることを、ということだそうだ。そしてそこの教会ではそれぞれに喜んで奉仕しているということらしい。出来る人が出来ることをしましょうなんて当たり前じゃないかという気もするが、案外出来る人が出来ることを喜んでするというのがなかなか出来ない。私はこんなにしているのにあの人はなんだ、なんてことを思いがちである。自分の出来ることは自分が喜んでする、それこそが奉仕だろう。そして聖書ではその出来ることというのは、神がその力を与えてくれたからこそ出来るのだ、と言うのだ。奉仕をする力は神が与えてくれたというのだ。
逆に言えば、その奉仕をするために神が力を与えたということになる。そうすると力を与えられていながらその奉仕をしないということはちとまずいことになる。買い物に行ってくれといわれてお金を貰っておいてそのものを買ってこなかったようなものかも。
そして賜物はあくまでも神から預かっているものなのだということだ。管理者という言葉があるとおりだ。だからそれはこんなすごい物をわたしは持っているのだと自慢するようなものでもない。たまたま自分に預けられているものだというのだ。神の計画の中の一部として自分が預かっている。だからその賜物を用いないと言うことは、生かさないということは神の計画自体が進まないと言うことになる。そして神の計画は互いに仕えるということのようだ。仕えるための賜物なのだ。隣人に仕えるため、教会の隣人に、そして教会の外の隣人に仕えるためのものなのだ。
そして神から与えられた力に応じて奉仕することは、イエス・キリストを通して、神が栄光を受けるためであるというのだ。なんじゃらほいと言う気もするが、賜物を生かし奉仕することで教会は建てられていく。私たちはその教会の一部とされているのだ。教会は建物のことではない。教会は人がキリストのもとに集められたものだ。教会は建物のように動かないものではない。教会は生きていていつも呼吸している身体のようなものだ。教会がキリストの身体と言われている通りだ。教会が生きているためにはそれぞれの部分がいつも生きて動いていないといけない。部分である私たちが生きて動いていないと、つまり賜物を生かして奉仕していないと教会は死んでしまうということだ。ひとりひとりが奉仕することで教会は生き生きと生きることができるのだ。そしてそれが神が栄光を受けるということなのかなと思う。