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礼拝メッセージより
説教題:「神の民」 2000年9月3日 聖書:ペテロの手紙 一 2章1-17節
愛
先日読んだ本にこんなことが書いてあった。著者は韓国人なのだが、韓国で日本の信徒を招いてセミナーを行った時の話し。日本人の希望でパゴダ公園に案内した。パゴダ公園は日本の軍隊が韓国でどんな酷いことをしてきたかという彫刻がある公園だそうだ。そうするとそれを見ていた一人の韓国人の紳士が話したいことがある、といってきた。その人は、日本人と親しくしている人を見ると黙っていられない性分なんだ、韓国人ならば日本人に対して憤りが活火山のように燃えている、どれほど苦しめられ、迷惑をこうむったかを思うだけで怒りが爆発する、平和平和といいながら、相変わらず気位ばかり高くて、自分の気に入らない相手は容赦なく切り捨てるのが日本民族だ、ある日本人から「韓国の人の気性はなかなか激しいですね」と聞いたことがあるが、とんでもない、いくら韓国人が気性が激しくても、日本刀を振り回して自分の腹を切ったり、世界を敵にまわして荒稼ぎをする大和魂にはかないませんと言った、第一日本にいる韓国人の同胞の中で、初めから日本に住みたくて住んでいる人がいますか、祖国での生活の土台は破壊されてしまって、帰りたくても帰れないでさびしく異国の空の下で息を引き取った人たちの悲しみの原因は誰が作ったのか、なのに、日本に住まわせてやっているといわんばかりに恩着せがましいことを言い、いやだったら自分の国に帰れと突き放す、そんなことを言ったそうだ。
続けて、私たちもクリスチャンだった、クリスチャンホームに生まれ育ちながら、教会と縁を切ったのは、クリスチャンたちの安易な生き方に絶望したからだ。汝の敵を愛せよ、という便利な立て看板の後ろにかくれて同族を殺し、弱者を踏みにじる悪人たちに顔をそむけはしても、積極的に戦おうとしないことは卑怯なことだ。こんなクリスチャンは必要ない、私たちは祖国を愛し、祖国を守ることができる人材を育てる事業をしている、日本は自国のことしか考えないが、韓国は今に世界のために必要な国になって、日本を見返してやる、宗教性に富んでいると言いながら、たった1個の10円をさい銭として放り込んで、億万の富を求めるような欲望のかたまりの日本人のような人間ではなく、もっと精神的に、次元の高い人材を育てるつもりである、と言ったそうだ。
本の著者はこれに対してこう言ったそうだ。何処の国に生まれたいと言って生まれた人はいない、私も日本に生まれたら日本人のようになっただろう、神に目的があってそこに生まれたのだ、その神の御心に背く生き方をすれば日本のような過ちを犯すことになるだろう、韓国も同じだ、神の意志に背くとき不幸を招く、いくらすばらしい人材であっても、その人が神の意志に生きるひとでなければ世界が必要とする人物にも、日本人をしのぐ精神世界に生きる人物にもなれない、もし私たちが日本を批判するだけにとどまるならば、日本人となんら違わない、このパゴダ公園まで来て、自国の人たちが犯した罪を知って泣いて神の前に悔いている日本人と、責めることを止めない人と、どちらを神様は喜ばれるでしょうか、とちらがすばらしい姿なのでしょうか、・・・最も美しい人は、どんな過ちと罪を犯しても、それを真実に告白して、正していこうとする人ではないでしょうか、反対にもっともみっともない人は、人を責めることはしても、愛することができない人なのだと思います。私たちはすべてを奪われましたが、愛があれば必ず立ち直ることができるでしょう、でももし愛を奪われたらすべてを永遠に失ってしまうのです、この愛は人間に基を置いたものではないのです、イエスさまを十字架につけて殺した人たちをも、なお愛して止まない神様に基を置いているのです、この神の意志に生きずしては、愛する資格がないことは当然です、愛する資格のない人材が、国のため、世界のために一体何が出来るでしょうか。
韓国の紳士は、私は非常に狭い思いの中に生きていたようです、あなたのおっしゃるとおりです、愛を奪われることが、すべてを失うことになるのですね、私はどうやらこのもっとも重要なものを失っていたようです、と言ったそうだ。なんと立派な紳士だろう。
乳
ペトロの手紙はバプテスマの時に読まれたそうだ。生まれたばかりのクリスチャンにふさわしいような言葉がたびたび出てくる。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」しかしこれは生まれたばかりの者だけではなく、長年クリスチャンである者に対しても同じように大事な言葉であす。神の言葉を慕い求めなさいということだ。神の言葉をしっかりと聞いてその言葉に従って生きなさいということだ。
石
またキリストのことをみんなから捨てられた石だと言い、その石の上にしいかりと立つようにと言う。石に立つということはイエスに立つということ、イエスの言葉に立つということ。イエスの言葉に従うということ。イエスの言葉にしたがって生きるということ。イエスの言葉に従わないならば、それはその石につまずくということ。
石につまずく者とは、イエスの言葉を聞いたことがない人間のこと、教会に来ない人間と言う風に考えがちである。しかしそうではなく、教会に来ていながら神の言葉を聞いてもその言葉を聞き流す者、そんなことできないことだと従わない者のことなのではないか。
愛すること、赦すこと、兄弟を裁かないこと、私たちはいろんなことを聞いている。しかしそのことがなかなかできない。それは確かにとても難しいことだ。自分を愛してくれない者を愛するということは難しい。自分に対して何か悪いことをしてきた者を赦すということはとても難しいことだ。おかしなことをしている、間違ったことをしている、と思うような人を愛し赦すことは難しいことだ。
最初に言った韓国の紳士がそうであったように私たちも周りの人に対して、あいつのここが悪い、こんなに駄目なやつだ、ここが間違っている、あれもやっていない、これもできていない、だらしない奴だ、そんな風に見ることが多いのではないか。相手を責めることは得意だ。教会に来ても、あの人はどうだ、この人はどうだ、と批判することが多い。愛しなさい、赦しなさいということは重々承知であるはずなのに、それができない、それをしない、その言葉を聞こうとしない、あるいは聞かないようにしていることが多いのではないか。そんなこと出来るわけがないと決めつけていることが多いのではないか。
それこそが、御言葉を信じないでつまずく、ということだろう。つまずくのは教会に来ていない人ではなく、教会の中の人間だと思う。
暗闇から
しかし聖書は、あなたがたは選ばれた民だと言う。神のものとなった民だという。そして暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった、と言うのだ。私たちは暗闇の中から救い出された者だというのだ。私たちは神に愛されている。神に愛され、暗闇の中から救い出された。愛されることで救い出されたのだ。
悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨てて混じりけのない霊の乳を慕い求めなさいと言われている。悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口、それは相手も自分自身も暗闇へと引きずり込むものなのだと思う。
ある教会ではスタッフ同士が、「絶対に責めない。常に誉め合う。それを貫いてきた。」というのが牧師のいう、教会を大きくできた秘訣だそうだ。
悪口のネタがないから言わないのではないだろう。人間同士だ。悪口を言う気になればいくらでも言える。しかしそれをしていてはそこは暗闇となる。暗闇を作っているのは私たち自身なのかもしれない。教会が暗闇だとしたら誰も教会になど来ないだろう。教会の成長を妨げている原因はそこにあるのではないかと思う。愛しなさいと言う神の言葉を真剣に聞いているかどうか、神からどれほど愛されているかを真剣に考えているか。
私たちは神に愛されている、イエスの十字架の死を代償にして赦されている。そのことをもっともっと真剣に考えよう。
御言葉に従うならば、教会は愛する群だ。私たちは愛し合う集まりだ。欠点も間違いもだらしなさもいっぱい持った中で、それでも愛し合う群だ。それぞれに神に愛されている同士なのだ。俺がこれだけ愛してやっているのにあいつはいつまでも変わらない、なんてのは愛しているということではないだろう。愛するとはどういうことなのか。よく分からない。しかし、これとこれとこれをすることです、というようなものではないだろう。それさえしとけば愛することになる、というようなものではない。それは相手を愛しているのではなく、自分の点数を稼いでいるだけだ。愛するとは相手のためを考え実行することだろう。そしてそれは自分自身をも喜ばすことになる。相手を責めることは相手も自分も暗闇に陥れることになるような気がする。
先ほどの成長する教会の秘訣のもう一つは誉め合うことだそうだ。誉めることが本当に下手だ。自分に出来ないことを相手がしたときには誉める。しかしそれだけではたまにしか誉められない。先日テレビで、誉める事柄を探し出して誉める、というようなことを言っていた。誉めるにはその人のいいところを探し出さないといけないのだろう。それはその人をよく見ることでもある。何気なくしていること、当たり前にしていることをよく見ることが大事だ。そしてそれを当たり前を思わないことが大事だ。食事を作ること掃除をすること、きっと本当は当たり前ではないのだ。そんなところに目を注いでいるかどうかが大事なのだろう。それは愛することでもあるのかもしれない。
絶対に責めない、常に誉め合う、成長している教会の秘訣ではある、しかしそれは愛し合う教会の本来の姿でもあるのではないかと思う。罪を持ちつつ、間違いを持ちつつ神の憐れみを受け、神の民とされた者の集まりなのだ。ただ神の憐れみによってそうして貰った者の集まりなのだ。そしてそのことを多くの人に伝えるためにも集められている。
私たちが目指すべきは、自分自身を立派にすることではなく、自分が多くの物、多くの信仰心を持つことではなく、隣人を愛することなのだ。自分が正しくあることよりも、隣人を愛することが大事なのだ。自分の隣の人を愛するとは具体的にどうすることなのだろう。教会の外の人を愛するとはどういうことなのだろう。それを神に祈り聞いていきたいと思う。