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礼拝メッセージより
説教題:「こんな私だから」 2000年8月27日 聖書:マルコによる福音書 14章22-31節
主の晩餐
22-25節は「主の晩餐」という小見出しがついている。
コリントの信徒への手紙一11章23-29節にもでてくる。
「これは、私の体である、わたしの契約の血である」と言った。一同が食事をしている時に言った。食事の最中のことば、過ぎ越の食事だから大事な食事であるが、食事という、ものすごく日常的なことのなかでイエスは大切なことを語った。
「これはわたしの体である」とはいったいどういうことか。もちろんイエスの体をちぎってみんながたべ食べたわけではない。後に主の晩餐のときのこの言葉を聞いて、クリスチャンは人喰い族だというあらぬ噂を立てられて、迫害されたなんてこともあったとかいう話も聞いたことがある。しかしもちろん人の肉を喰ったわけではない。イエスが「これは私の体である」という、つまりこれは私自身を食べなさい、私自身を与える、ということなのだろう。そしてそれは自分の命をおまえたちに与えると言うことを意味しているように思う。
また皆で杯から飲んだ後で、これはぶどう酒を飲んだのであろうが、「この杯は多くの人のために流す私の契約の血である」と言った。これも同じく、私は自分の命をおまえたちに与えるということなのだろう。そしてその後イエスは十字架につけられ、血を流した。それはあなた達のために体を与え、あなた達のために血を流すのだ、あなた達のために私は十字架につけられるのだということだ。
あがない
かつて神の裁きを通り過ごすために小羊の血を鴨居に塗った。また自分の罪の身代わりとして、犠牲の動物を殺してささげていたということがあったそうだ。弟子たちにも、血というものの持っている意味はよくわかっていたであろう。だからイエスの言いたいこともよくわかったに違いない。つまり、イエスは多くの人のための犠牲になる、身代わりになる、あがないとして血を流すということだ。
立派
しかしそのすぐ後で「あなた方は皆私につまずく。」とイエスは言われた。そしてその通りになった。ペテロがつまずくことも知っていたようだ。
しかしそのことをペテロ本人は知らない。「たとえ、みんなのものが躓いても、私はつまづきません。」なんて、さらに「あなたと死ななければならなくなっても」とまで。すごい自信、あるいはすごい情熱。自分たちの先生が一大決心をしてなにかをしているのだから、それについていかねばという意気込みなのか。ペトロはその時にはきっと心底そう思っていたに違いない。自分の絶対についていくと決心したに違いない。
疑うことは悪いこと、信じないことは悪いこと、弱音を吐くことは悪いこと、といわれる。信仰偉人伝なんてのを見ていると、みんな勇猛果敢、疑うことなんてまるでなく、全幅の信頼を、疑いのない信心をもっている、といった風に書かれている。それが本当かどうかわからないが、そんな立派な姿が書かれている、立派だった部分だけが書かれているのかもしれないが、ということはそんな姿を求めている、そんな姿こそが偉人の姿だという考えがある、ということだろう。そんな本を書く人にも、読む人にも、そんな立派な姿こそが信仰者にふさわしいことなのだという了解があるのではないかと思う。
そんな立派なことを書いている本はいっぱいある。だから私たちもそのような人を目標にして、なんてことを思うこともある。しかしそんなことを思っても、結局は私はだめだった、となってしまうことが大半、である。重い病気になったり苦しいことに直面しても、これは神様から与えられた試練ですから、と平気な顔をして受け止めることなんかできない。私にはそんな信仰はない、私はそんなことはできないだめな信仰者だ、落ちこぼれだ、と思うことが教会でも多いのではないかと推測している。教会は一部の熱狂的な信仰者と、大多数の落ちこぼれの集まりなのではないかと思うことがある。
でも聖書は立派なペテロさんのことを書いてはいない。聖書は何ともだらしない、挫折を繰り返しているペテロのことを書いている。ペテロだけではなく聖書には躓いたり転んだりの人間ばっかりだ。
教会は、なにがあろうと躓かない人の集まりではない。聖書にも登場しないような立派な揺るがない信仰を持った集まりではないだろう。どんなたいへんなことが起ころうと信仰を立派に守り抜いた人の集まりではない。一度も躓いたことのない、神を一度も疑ったこともない人の集まりではない、と思う。
弟子たちは躓いてばかり、疑ってばかりの人たちだった。とても信仰深い人たちではなかった。ところがその人たちが教会を建てあげていった。というよりもその人たちを通して神は教会を造っていった。教会は最初から罪人の集まりだった。いざとなったら逃げ出すような人の集まりだった。神はそこに教会をつくった。そんなんで大丈夫なのかと思う。でも大丈夫なのだ。教会は神が建てたから教会なのだ。なかにいる人間の質が問題ではない。そこの神がいるかどうかが問題なのだ。教会とは逃げ出して、また戻ってきた人間の集まりだ。
ペテロはいろんな失敗を重ねてきた。心の中にいろんな痛手を負った。自分のだめさをいやというほど知ったことだろう。罪深さをいつも心に秘めていたのではないか。でも、だからこそ彼は神の偉大さを余計に知っていたに違いない。こんな私でも神は愛してくださるのだ、と感動していたことだろう。こんな私を赦されている、こんな私を神は用いている、そのことに感謝していたのではないか。
でも
こんな私でも、ということばを教会でよく使う。ぼくはかつて、こんな私でも、ということをよく言っていた。私はだめな人間だ、こんなにだめな人間だ、と言うことをよく言っていた。だめな牧師だから、いつもへまをして挫折をして、こんなだめなんだよ、と言うことをどこへ行っても言っていた。
しかしある時、誰かの手紙の中に、こんな私でも、から、こんな私だから、と言うふうに変えられたい、だったかそんなことばをもらった。
こんな私でも神は愛してくれている、と言っていた。確かにその通りだ。しかしそれだけではない。こんな私でも、と言うとき、自分がなにか神から遠いところにて、それでもかろうじて神の領域に踏みとどまっている、何とか神の仲間に入れてもらっている、と言った気持ちでいた。一応神に愛されてはいるのだろうが、かろうじて、と言った気持ち。しかしこんな私だから、というとき、それは神の領域のど真ん中にいるようなものだ。神のすぐそばにいるというか。
だから
教会では、私はそんなに信仰は深くない、そんなに立派じゃない、そんなに謙虚じゃない、そんなに偉くない、といった類のことばをよく聞く。それでもどうにかかろうじてクリスチャンをやらせてもらっている、と言った言い方が多いように思う。だから私にはそんな大したことはできない、そんなことができるようなものではありません、と謙虚な姿勢を見せる。こんな私でもどうにか神に愛してもらってます、と言ったことばが多い。でも本当にそうだろうか、多分違う。
私たちは神様から神の国の末席に入れて貰っているような気になることが多いのかもしれない。しかしきっと神は私たちを神の国の末席に招いているわけではない、神の国の真ん中に招いてらしい。でも、私はこんなだらしない、だめな人間なのに、というだろうか。それはその通り、しかしそのあなたを神はど真ん中におかれているのだ。神の国のど真ん中に、そして教会のど真ん中に招いている、置かれているのだ。
こんなに罪深いのに、と思う。しかし罪があるからイエスによって赦されているのだ、罪深いから教会に導かれたのだ、こんな私だから神の国に招かれたのだ。決して自分からは入れなかった。ただ招いてくれたから入ることができたのだだ。
イエスはぶどう酒を飲んだ後に、「これは多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言われた。不思議なことばがここに入っているのに気がついた。契約という言葉だ。ふつう契約とは双方が合意して成り立つこと。なのにここではイエスが一方的に宣言しているにすぎない。そのどうしてなのか、その理由をペテロが教えている。契約したからにはその条件を守っていなければいけない。条件を守れなければ契約は破棄されてしまう、ふつうなら。しかしイエスの契約はそんなことで破棄される契約ではない。だから条件もついていない。人間にはその条件を守れないからか。たとえ人間が守れなくても破棄されることのない契約だからなのだろう。イエスからの一方的な契約なのだ。人間の側の条件はなにもない契約なのだ。
イエスの食卓に招かれているのは、今の私たちだ。こんな私でもかろうじて招いていただいのたではない。こんな私だから招いていただいたのだ。イエスは私たちのすべてをご存知の上で招いてくださっているのだ。私たちの駄目さも罪深さもだらしなさも全部知った上で招いてくださっているのだ。こんな私たちだから、こんな罪深いわたしたちだから、イエスは一方的な契約をしてくださったのだ。
ペトロを通して神は多くのわざを行った。イエスを「絶対に知らないとは言わない」と豪語したのに、知らないと言ってしまったこのペトロを通して、神は偉大なことをされた。そのペテロを立てられた。
私たちがどれほどの人間なのか、ペトロよりももっともっとだめな人間かもしれない。私たちはそんな風に自分だらしなさをとても気にする。本当は神に愛されるような人間ではないのに、本当の自分を知られたら見捨てられるのではないか、愛されなくなるのではないかと心配する。しかし神は私たちの全てを知っている、そして招いてくださっている。私たちがどんなであろうと破棄されない契約を結んでいるのだ。ただイエスの十字架の死によって私たちは赦されているのだ。
こんな私だから、神に赦されなければいけなかった。こんな私だから神の愛が必要だった。こんな私だから神はこんな契約をしてくださったのだ。こんな私だから、神と共に生きねばならないのだ。
ペトロを通して働かれた神は、今度は私たちを通してどんなことをなさるのだろうか。どんなことをされようとしておられるのだろうか。