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礼拝メッセージより
説教題:「神が」 2000年8月20日 聖書:ヤコブの手紙 4章1-10節
争い
戦いや争いの原因は欲望にあるという。ほしい、ということが争いの原因であるらしい。確かにそうだ。
ヤコブは、欲しても得られないで人を殺す、という。それが欲しいと思っても手に入らないので人を殺してまで手に入れようとする、といことだろうか。欲しい欲しいと思いだすとどうにも止まらなくなってしまって、ついには人まで殺してしまうことになるということになりそうだ。
人が持っていないものを持ちたい、人よりも優れたものを持ちたい、人よりも優れた人となりたい、人よりも優れた名声を持ちたい、と思う。いっぱい持てば持つほど幸せになれるような気になっている。
世の友
私たちはそんな風にどうにかして、なんとかして自分を高くしたいと思っている。そうしないと誰も認めてくれない、そうしてないとみんなからバカにされると思っている。だから一所懸命に高くなろう、高くしよう、周りの者よりも高くしよう、高くできなくても高い振りだけでもしようと思う。そしていろんなものを一所懸命に手に入れようとする。いろんなものを持つことでひとに負けない人間になろうとする。誰も持っていないお金や宝石を持って、誰も持っていない学歴を持って、誰も持っていない資格を持って、誰も経験していないことをして、有名な人を知り合いに持って、誰も言ったことのないところへ行って、、、。そんないろんなものを持つことでひとに負けない人間であることを誇示しようとする。人に負けないことで初めて安心する。
しかしそんな生き方をヤコブは世の友になることだと言う。自分で必死に自分を飾り立てるようなこと、いっぱい鎧をつけて強さを見せつけようとするようなこと、自分がどれほど優れているかということを一所懸命に見せつけようとすること、それが世の友となることということのようだ。それは高慢であるという。そしてそれが戦いや争いの原因であるということだろう。
ねたむほど
ヤコブは、そんな持ち物を一所懸命にほしがることではなく神を見上げよ、と言う。自分がいろんなものを持って自慢し安心しようとすること、そしてそれは人のものまでも自分のものとしてしまおうとすることでもあるようだが、それは神の敵となることだという。そうではなく、神に目を向けよとヤコブは言う。なぜなら神はねたむほどに深く私たちを愛しているからだ、というのだ。そして豊かな恵みを下さるからだ、というのだ。
大きな恵みを与えてくれる神を見ないで、どうして必死になって、人のものまで欲しがって自分の持ち物を増やそうとするのか。結局はそれが争いの原因となり戦いの原因となっているのだと言っている。
誰でも自分のことが大事である。自分のことをなおざりにしてまで人のことはなかなかできない。自分の貯金をなくしてまで困っている人を助けるなんてことはなかなかできない。ではどうすればいいのか、ということになる。
しかしそんな時、私たちは自分のお金、自分の持ち物のことにばかり目を奪われている、自分の力だけに目を奪われているのではないか。
ヤコブは神を見よ、と言うのだ。豊かな恵みを下さる神を見よ、と言うのだ。神を見つつ考えよ、ということが大事なのだ、と言っているようだ。
神を見ないで、何とか自分の持ち物を増やそう、相手がどうなろうと自分のものを増やさねば、というならばそれはここでいう悪魔に服従しているようなものなのだろう。またあるいは、自分にはこれだけしかない、これだけしかないから何もできなしない、自分は無力なのだ、と始めからあきらめているとしたらそれも悪魔に魅入られているようなものだろう。
ヤコブは神の敵になるな、敵になるのではなく神に服従しなさいという。
神が
私たちは確かに無力な存在である。自分たちの力ではなにほどのこともできない。問題に直面したときにはあきらめるしかないような存在である。しかしヤコブは神に近づきなさいと言う。そうすれば神は近づいてくれるというのだ。また主の前にへりくだりなさい、と言う。そうすれば主があなたがたを高めてくださるという。神が近づいてくれ、神が高めてくれるというのだ。
だからこそ、手を清め、心を清めなさいという。それはどういうことか。具体的には悲しみ、嘆き、泣くということ、笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えるということのようだ。なんなのだろう。
それは自分自身のことをよく見つめるということなのではないかと思う。自分の罪深さ、だらしなさ、駄目さを良く見つめるということではないか。
私たちは人と競争して優位に立つことを目指すような社会に生きている。競争して勝つことが立派な人間と認められる。自分の弱さを克服して、駄目さを乗り越えて立派な優れた人間になることを目指す。戦い争って勝つことが優れた人間と見られている。抜かりなく落ち度なくやっていくことを求めている。そんな上昇志向があるように思う。自分の力でいかに高くなれるか、それを問題にしている。そしてその高さを評価される。
しかし聖書は自分の罪を見つめるように言われる。自分の足下をしっかりと見つめるようにと言われているようだ。あるいは自分自身、自分の真ん中をしっかりと見つめるようにと言われているようだ。私たちはいろんなもので着飾っている。自分を隠し、自分を良く見せようとする。しかしその真ん中の自分をしっかりと見つめるようにと聖書は告げる。自分の罪や自分のいたらなさやだらしなさ駄目さを見つめるということはとてもしんどいことだ。ほとほといやになる。それこそ嘆き悲しみようなことだ。
しかしそんな私たちを神は高めてくれる、というのだ。自分の力でなにもかもやらないといけないとすればそれこそ人のことなど構っていられない、とにかく自分のものは自分で守らねば、ということになる。しかしヤコブは神があなたを守ってくれていると言う。しかも立派でない、罪深いだらしない駄目なあなたをねたむほどに愛し、支えてくれているという。だからこそ隣人を愛しなさい、と言うことだ。神が支えている、豊かな恵みを下さる、だから隣人と共に生きるようにと言われている。
自分
私たちは自分がどうであるかということには敏感である。自分が恵まれるか、自分が嬉しいか、自分が喜べるか、自分に利益があるか、自分が苦しまないか、自分が苦しくないか、などなど。聖書は、自分を愛するように隣人を愛せ、と言う。自分のことに敏感なように、それと同時に隣人のことにも敏感となるようということだろう。自分だけではなく、あの人も恵まれるか、あの人も嬉しいか、あの人も喜べるか、というようにあの人もどうなのかということを考えなさいということだろう。あるいはむしろあの人のことこそ考えなさいと言うことかもしれない。私のことは神が心配してくれているからだ。私のことは神が支えてくれているのだ。だからあなたは隣人のことを心配し支えるようにしなさいということだろう。
そうやって支え合う関係を持つようにと聖書は薦める。しかしそれは私が人を支えることができるような立派な人間になることが大事なことではなく、それが目的ではなく、お互いに支え合い助け合いいたわりあう関係にあることが大事なことなのだと思う。そんな隣人との関係を大事にするようにと聖書は繰り返し告げている。それはイエスの生き方でもあり、私についてきなさいと言われた生き方でもあったのではないか。