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礼拝メッセージより
説教題:「分け隔て」 2000年8月13日 聖書:ヤコブの手紙 2章1-13節
差別
教会に来る金持ちで身なりのいい人と、貧しく汚らしい服装の人とどのように接しているのか。当時の教会では、金持ちには丁重に接して、みすぼらしい人のことは放っておくようなところがあったらしい。貧しい人には座る椅子もないようだ。ヤコブがこうやって手紙に書くということはそういうことが当たり前になっていたということかもしれない。教会の中にも格差があって、大事にしなければいけない人と、大事にしなくてもいい人、来て欲しい人と来て欲しくない人、本当は来て欲しくないけど仕方なく受け入れている人、というようなことがあったようだ。
教会でも社会を反映するのでいろいろな問題がある。教会には何の差別もありません、誰もが平等です、というのは多分幻想だろう。
ここまであからさまにすることはそうはないかもしれないが、必ずしも教会に来る全部の人を歓迎しないという面はあるのではないか。おかしな格好をしている人に対しては変な目で見てしまうというようなことがあるように思う。
ではどんな人が教会に来てくれたら嬉しいだろうか。どんな人が来ることを望んでいるか。立派な服を着た紳士、淑女が来ることを望んでいるのか。きれいな服を着て、きれいな言葉をしゃべる人が来たときには、よくいらっしゃいました、と思い挨拶もする。汚い格好をした人や茶髪の若者やうるさい子どもや、やくざっぽい人がが来たときには変な奴が来てしまった、なんて思い挨拶もしないなんてことがあるのではないか。そういう面が全くないとは言い切れないように思う。私たちは教会に来る人を、この人は来て欲しい人、この人は来て欲しくない人、というふうに選んでいるいるのかもしれない。それは私たちが選別して、あなたは来てもいいよ、と許可を与えるようなものだ。私たちがだめだ、と言ったらその人はこの教会には来れないだろう。そうするとその人が教会に来れるかどうかを私たちが決めているということになる。まるで神になったかのようだ。「教会の成長はクリスチャンが妨げている」なんていう本もある。
でもそう思うとき、案外私たちはその人を見ていないのではないか。その人のみなりというか、外見しか見ていないような気がする。その人自身を見ることをしないで見栄えだけを見ているような気がする。そしてそれはみすぼらしい人が来たときでもそうだ。変な格好だ、ということしか見ていないのではないか。その人がどのような人か、どんな思いを持っているか、どうしてそういう格好をしているか、どんな苦しみを持っているか、それが見なくなってしまっているのではないか。おかしな奴が来た、と思って遠巻きに見ている時、その人の服や髪型やふるまいは見えても、その人の心は見えていないのではないか。その人そのものが見えなくなってしまっているのではないか。
そして他の人にそんな立派な格好や立派な振る舞いを期待する時、教会に来るときはおかしなことを言ってはならない、信仰的になっていないといけない、ふざけてはいけない、大きな声を出して笑ってはいけない、なんて思うとき、実は自分自身をも縛り付けているのではないかと思う。教会に来たときには立派な信仰者のような振る舞いをしないといけないと思っているとしたら、あるいは弱さや苦しさやつらさを見せてはいけない、嘆いてはいけないと思っているとしたら、あるいは又、何もかも感謝しないといけない、感謝できないことにも感謝していると言わないといけない、と思っているとしたら、それは自分自身をも縛り付けているということになる。教会に来てまでというか、教会に来ているからこそいい格好をしないといけない、隙をみせてはいけない、と思っているとしたら、それは自分で自分を縛り付けているということだろう。
その「教会の成長はクリスチャンが妨げている」という本の中に教会に来ているある人のこんな言葉が出てくる、「教会に行くととても疲れるのよ。みんな言葉遣いも身ぶりも、とても上品でていねいでしょう。だからつい私も固くなってしまってくたびれてしまうのよ」「ちょっと下手なことするとあの人はまだ浄められていないとか、堕落したとか、と教会で責められるとどうしよか、と恐れて言葉遣いにとても気をつかうんですよ」。
わざわざ差別しようとか思う人は多分いないだろう。あなたはそこに立っていなさいというようなことをすることはほとんどないだろう。でも知らず知らず差別してしまっているようだ。そんなことでどうする、それは駄目だ、それはおかしい、と何気なく言うことが多い。先の本の著者はこう言っている、「隠すことなく互いのありのままの姿を見せてなぐさめ、はげまし合うところが教会でありますのに、、、。」さらにこうも言います。「人々は誰でも愛を求めています。もし、教会に行けばどんな汚い姿でも受け入れてくれ、どんなお話でも気軽に話すことができ、なぐさめはげまされるとすれば人々は教会に群がってくることでありましょう。」
分からない
きっと誰も、差別してやろうと思っている人はいないでしょう。教会に来ないようにしてやろうと思っている人もいないでしょう。新しい人が来たときにはきっと誰もがまた来て欲しい、続けて来て欲しいと思っているでしょう。そこで一所懸命に接待し、また来て下さいね、と言う。とても結構なことだと思う。でも何より大事なのは、その人をありのままに受け入れ、なぐさめ励ますことだと思う。その人の間違いを正してやることことよりも、その間違いを含めてその人を受け入れ慰めることが大事なのだと思う。そして何よりも新しい人は教会の中の関係がどういう関係なのかを見ているのだと思う。互いに受け止め合い、励まし合い、いたわり合っているのかどうかを見ているのだと思う。そしてそういう所へは安心して集まって来るのだと思う。
しかし実際はなかなかそうはいっていない。どこの教会もそうかもしれないが、相手にも自分にも立派さを求めて、みんなが背伸びしていい格好をするようなところがある。牧師からしてそうなのかもしれない。誰もが自分の駄目さを責められれそうな恐れを持っているのではないかと思う。自分の弱さや駄目さを出してはいけないような雰囲気があるのではないか。立派なクリスチャンでなければ、聖書のことは全部知ってなければ駄目なんだ、自分は駄目なクリスチャンなんだという強迫観念を持っているような気がする。そしていつも誰かから責められそうな恐れを持っているのではないか。そんな不安からつい人を責めてしまう。人の駄目さを責めてしまったり、ことさら自分の正しさを主張したりする。
イエス
イエスは、私たちに対して、正しくなってからやってこい、とは言わなかった。間違いを全部正してから自分についてこい、とは言わなかった。罪を全部精算してから来い、とは言わなかった。そのままで、ありのままで私に従いなさい、と言われている。イエスが言うことは、自分を正しくしろ、自分の間違いをなくせ、ではなかった。そうではなく、隣人を愛せ、と言うことだった。隣人を愛するということはどういうことか、それは隣人をありのままに受け入れるということだろう。間違いや罪を持った隣人を受け入れ慰め励ますということだろう。
教会
腐っても鯛という言葉がある。腐っても教会、教会は大事なものなのだ。最近こんな言葉を見た、「伝道に失敗し、大きな誤りをおかしたとしても、教会はこの世にあって神のみわざが現れるところである!」。
誰かがそこに救いを求めてくる。安息を求めてくる。休息を求めてくる。いろんな重荷を抱えてやってきている。そんな大事な教会を私たちは任されている。
私たちの教会にもそんなものを求めてやってきているのだと思う。戸口までやってきて待ちかまえているのではないか。愛して欲しい、励まして欲しい、いわたって欲しい、苦しみを聞いて欲しい、そんな人がいっぱい教会を取り囲んでいるのではないか。そして中をのぞいている。自分が入っていっても大丈夫なところかどうかを見ているのではないかと思う。
私たちはイエスの十字架の上にしっかりと立ち、神の愛をもっともっと受けなければならないと思う。神がどれほど憐れんでくれているのかをもっと知らねばならないと思う。私たちはその憐れみの中に生かされているのだ。私たちは間違いや罪をなくしてきれいになってここに集められているのではない。罪も間違いも持ったままの私たちを神が憐れんでくれたからここに集められているのだ。そして互いにいたわり合い、慰め合いためい集められているのだ。愛し合うために集められているのだ。それが私たちの基本であり土台である。その土台の上にしっかりと立っていきたい。その土台を離れるところで差別が起こり、分け隔てが起こるのだと思う。そこで自分の正しさを主張しあい、争いが起こるのだと思う。
イエスの十字架を見上げて、イエスの憐れみを見つめて生きていこう。そして互いに愛し合っていこう。