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礼拝メッセージより
説教題:「罪人の集まり」 2000年7月30日 聖書:ヨハネの手紙 三
巡回指導者
手紙の主は長老と名乗る者。当時は教会を回って指導する巡回指導者がいたらしい。この時期の教会は巡回指導者の教えに従っていた。そしてそういう人に対しては丁重に接するようにしていたらしい。ガイオという人物は彼らの教えに忠実に従っていたらしい。
ガイオは、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くした、という。つまり巡回指導者を大事にしているということだろう。またそのことを愛だ、と言われている。巡回指導者たちはガイオの愛を他の教会で証した、というのだ。
混乱
ところが巡回指導者の教えに従うことを嫌う者がガイオの教会にも現れた。その名はディオトレフェス。この人は巡回指導者の教えに聞き従わない。悪意に満ちた言葉で指導者たちをそしる、そして兄弟たちを受け入れず、うけいれようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出している、というのだ。
ディオトレフェスは、手紙の主の長老を中傷し、長老の伝道活動を批判している、また自分の教会の自主性を主張し外部からの影響をはねつける、その結果巡回指導者を受け入れないしその人たちを支援しない、また自分たちと意見の違う者を教会から追い出すということをしているというのだ。
しかしその一方で、同じ教会の中にディオトレフェスに同調しないガイオたちもいたということだ。ディオトレフェスは自分たちこそが正しいのだと主張していただろうし、ガイオも自分たちが正しいと思っていただろう。そこで協会内に混乱が起きる。
正しさ
ディオトレフェスは自分たちと意見の違う者を教会から追い出そうとしている。彼らにとっては正しくない者は出ていけ、ということだろう。一方、ガイオにとってはどうなのだろうか。ディオトレフェスたちは間違っているから出ていけ、ということだったのだろうか。きっと違うだろうと思う。もしガイオがディオトレフェスと同じように、お前達は間違っているから出ていけ、と言ったとしたらどうなんだろうか。
見習う
長老は善を見習え、と言う。しかし何が善なのかということもまた難しい。人は誰もが自分で正しいと思うことをしている。自分なりに正しいと思うことをしている。しかしそのことが善であるかどうか、それを吟味することが大事だ。
ディオトレフェスも、自分があえて悪いことをしようとしてやっていたわけではないだろうと思う。そうすべきだと思って、そうすることが正しいこと、間違っていないことだと思ってしていたのではないかと思う。権力を持つために、悪いことをしてもいいんだ、と思ってしていたのだろうか。そうではないのではないかと思う。自分の正しさを主張することで、自分と意見の違う者を排除してしまうことになっていったのではないかと想像する。
長老は善を見習え、善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です、と言う。悪を行う原因は、神を見たことがないためということかもしれない。神を見ていないことが悪の原因なのだ。イエス・キリストを見ないこと、イエス・キリストの行いを見つめていないこと、それが悪の原因なのだろう。だから善を見習えということは、結局はイエス・キリストを見習えということだろう。
正しさ
私(たち?)は自分がイエス・キリストを見ているかどうか、イエス・キリストに見習っているかどうか、ということよりも、イエス・キリストを見ないで、神を見ないで自分の正しさを求め自分の正しさを主張するところがあるように思う。自分がいかに正しいかどうかということを求めている、そして気にしている。逆に言うと間違うということを恐れている。
自分がどれほど正しく生きているか、どれほど正しく生きてきたかどうか、そんなことをとても気にする。こんなに正しいんだぞ、と思えることで安心する。そして間違っている者たちに対しては、あいつらはけしからん、とんでもないやつだ、と思う。特に犯罪を犯す者に向かっては安心して悪口を言う。そんな習性があるように思う。
教会に来ても、自分がいかに正しくあるかということを気にしていることが多いのではないか。自分がどれほど信仰的か、どれほど罪を犯していないか、ということを心配する。そして自信を持てるときには安心して礼拝に来て、人間はこうあらねばならない、悪に習ってはだめだ、と言う。逆に自信がないときには、そんなことでどうするんだと言われることを心配してびくびくして礼拝に来るか、礼拝に行くのもおっくうでもう行かないなんてことがある。そんな面があるように思う。
自分の正しさを主張するところではそんな風になりがちだ。自分の正当性を主張し、間違っていないかを異常に心配する。そしてまわりの人の間違いにはとても敏感になる。あの人はあんなこと言った、こんなこと言った。私はこんなにしているのに、あの人はあれもしないこれもしない。そんな風に自分の正しさを主張するところ、自分が正しいかどうかということばかりを気にしているところでは神が見えなくなってしまうようだ。自分が正しいかどうか、周りの者が正しいかどうか、そんな風に自分も人も採点するような目で見てしまいがちだ。そこではイエス・キリストが見えなくなってしまう。イエス・キリストが人を見つめる見方とはまるで違う見方で人を見てしまう。ディオトレフェスが陥った間違いはそこだったのではないかと思う。
愛
イエス・キリストは人を試験官、裁判官のような見方で見たのではなかった。こいつにはどんな間違いがあるか、どんな罪があるか、といって採点するような見方で見ていたわけではない。
ヨハネによる福音書の8章に姦通の女の話が出てくる。姦淫の罪を犯していたという現場を押さえられた女を人々がイエス・キリストのもとに連れてきたという話だ。人々が、こういう女は石で打ち殺すようにと律法にあるがどうしましょう、とイエス・キリストに詰め寄った。しかしイエス・キリストは罪を犯したことのない者がまず石を投げなさい、と言ったところが結局みんないなくなった、という話だ。そしてイエス・キリストは女に、わたしもあなたを罪に定めない。これからは罪を犯してはならない。と言ったという。
イエス・キリストの人を見る見方はこういう見方だ。罪を見つけて問いつめ糾弾するという見方ではない。罪があるものをも受け入れようとする見方だ。罪を持つ者をも愛するという見方だ。
先の手紙の主が言う、善に見習う、ということはこのイエス・キリストの見方に習うということだ。
イエス・キリストはそんな見方で私たちをも見つめてくれているのだ。私たちの罪をいちいちほじくり出して、どうしてこんなことをしたのか、何是こんな悪いことをしたのか、と問いつめるような見方ではない。罪があるままに、しかしその罪を赦す、そんな見方だ。それは私たちの罪を自分が背負うということでもあるのだと思う。お前の罪は私が背負う、だから私はお前を赦すということだろう。姦淫の女に対して、わたしもあなたを罪に定めない、という言葉はそのまま私たちに対しての言葉でもある。
私たちはそうして赦されている。罪をいっぱい持っている、なのに赦された者の集まりだ。教会とは赦された者の集まりであるが、しかしまた罪人の集まりでもあるのだ。罪がなくなった者のあつまりではない。罪がありながらそれを赦してもらった者の集まりだ。だからクリスチャンだから偉いとか清いとかいうことはないのだ。
人の罪や人の間違いが気になるとき、自分の正しさを主張したくなるとき、それはイエス・キリストが見えなくなっている時ではないか。それは姦通の女に向かって石を投げるということだ。その場にいた人々は石を投げずにその場を去っていった。彼らは、罪を犯したことのない者が石を投げろと言われて自分たちの罪に気づいたとても信仰深い人たちなのだ。あんなことをしていてはだめだ、あんなことをするやつは駄目だと思うとき、それはその人に向かって石を投げているということに等しいのだろう。
罪をも含めて、間違いをも含めてその人を受け止める、それが愛するということだろう。その人の苦しみや悲しみをもみんなひっくるめて受け止めること、それが愛するということだろう。
ヨハネの手紙では繰り返し愛しなさい、互いに愛し合いなさいと言われている。自分の正しさ正当性を主張するところでは結局愛する思い、愛するという見方ができなくなってしまうのだろう。正しくしなさい、というよりも愛し合いなさいというのだ。間違いを見つけようとする見方ではなく、愛する見方で隣人を見つめなさいということだろう。そこではじめて相手の苦しみや悲しみも見えてくるのだと思う。
教会は苦しみや悲しみを抱えた者の集まりでもある。罪に苦しみ、不条理な世界で悩みながら生きている者たちの集まりでもある。そんな者たちがいたわり合い、赦し合い、愛し合う、それこそが教会なのだ。