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礼拝メッセージより
説教題:「神の教えに立つ」 2000年7月23日 聖書:ヨハネの手紙二
目標
先日ちらっと見たテレビで、若い人が討論していた。少ししか見なかったのだが、尊敬する人とかいう話をしていて、一人の人が自分の先生を尊敬する、と言っていた。その人に向かって別の人が、君がその先生を越えたときには尊敬しなくなるのか、なんてことを言っていた。そう言われてその人はうなっていた。実はそれしか見てなくてどういうないようなのかは定かではないのだが、ちょっと気になったことがあった。それは、君がその先生を越えたときには、と言ったことだった。
先生を越える、というのはどういうことなんだろうか。それを聞きながら、これを言った人にとっては、人間がひとつの直線の上を順番に並んでいると思っているんだろうか、と思った。僕自身もそんな風に思うところがある。人は一列に並んでいて、一番からビリまで順番がある、そして前に行くほどりっぱないい人間であるような思いがある。一直線に並んでいれば順番はすぐに分かる。人間にはそんな順番がある、と思っていた。先生を越える、ということはそんな順番があって先生の前になる、ということを意味しているんだろうか、なんて考えた。自分よりも前にいる人だから尊敬できて、自分よりも後ろのなった人のことは尊敬できないのではないか、というような考えがあるんだろうか、と思った。
確かにそんな考えの中で育ってきたような気がする。なんでも順番があって、誰が一番すぐれているかということが決まっているという思いがある。そして一番に近いほどいい人間、価値のある人間と思っていた。一番になるために誰にも負けないようにならねば、と思っていた。それこそが大事なことだと思っていた。だから一番でない、落ちこぼれの自分は駄目な人間なのだと思っていた。競争して勝つこと、誰にも負けないこと、それが世の中で一番いいことだと思っていた。負けちゃいけないとか、負けたから駄目だとかいう思いがある。そしてそんな思いに振り回されている。
土台
聖書には、神の言葉を聞いて行う者が岩の土台に家を建てるようにといわれている。現実には深いところに岩があっても、硬い岩の上に土がいっぱい載っている。その土を掘って岩の上に土台をたてることが大事だ。
同じように神の言葉、神の教えの上にいろいろなものが乗っかっている。愛し合いなさい、と聞いたときにはその通りだと思いそうしようと思う。偉い先生から話を聞いた時にはそうせねばと思う。いっていることは良く理解できる。しかしいざ人を前にするとなかなかできない、愛せない。この人はあんな悪いことしたんだから苦しむのは当然だ、苦しむべきだなんて思って何もしないとか、この人は私に何もしてくれないから何もしたくないとか、私ひとりがしたってどうにもならないからしないとか、いろんなことを考えてしまう。いろんなことを考えるのはいいが、結局愛し合いなさいという言葉がどこかに埋もれてしまう。愛さなくなってしまう。
愛し合いなさい、と言われているのに愛さない。それは結局は神の言葉を聞いてないことになる。愛するためには先ずは相手を愛そうとする目で見ることだろう。しかし愛するよりも相手がどうなのかということを判断しようとする見方になってしまいがちだ。この人はいい人間かどうか、自分が愛するに値するかどうか、どれほど立派か、正しいか、よく働いてきたか、そんな評価する味方で人を見てしまいがちなのではないか。そして多分そんな目で見るとみんな不合格になってしまうだろう。誰もが欠点を持っている。いっぱい持っている。欠点がないかどうかという見方で人を見るときっと誰にも欠点があるということになるだろう。そして結局は誰も愛せないということになってしまうのではないか。
私たちは、愛し合いなさい、という言葉を聞いている。しかしその岩の上に、自分で必死に働かない者は大事にしなくても愛さなくてもいい、という土が載っている。間違っている人間は愛さなくてもいい、という土が載っている。自分の嫌いな人間は愛さなくてもいい、という土が載っている。
私たちはどこの土の上に家を建てているのだろうか。岩の上に立てているのだろうか。
ルカ6:46-48「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てるとは、神の言葉の上に乗っかっているいろいろな土をのけて神の言葉を見つけだし、その上に家を建てるということではないか。愛し合いなさい、と言われるとき、それを妨げるいろんな思いがある。だからといってその思いのままにするのか、それともいろんな思いを持ちつつ神の言葉を探るのか。
人の話を聞いているときに、それはおかしい、そんなことではだめだ、それは間違っていると言いたくなる。そんな言葉を何気なく口にすることが多い。それもほとんど何も考えずにいってしまうことが多い。でもそんな時っていうのは結構社会的な常識に乗っかって言っていることが多いのではないか。苦しんでいる人の話を聞くときでもそうだ。
癒し
自分のことをありのままに受け入れてくれるところを求めている。誰もがそうだろう。そんなのは甘えている人間だ、という見方をされることが多いのかもしれないが、人間は根本的にはそんなところを求めているのではないか。責められることも、問いただされることもない、自分がそこにいることを認められる場所、安心してそこにいられる場所をみんなが求めている。つまりそれは愛される場所ということではないかと思う。愛されたいと思っているのだきっと。不安になった子どもが親に抱きしめられることで安心してまた遊びに行くような、そんな親の腕に抱きしめられるような場所を求めているのではないか。
疲れて倒れてしまう時に、愛されることで癒され元気になり、また生きる力が出てくる。私たちが人を愛する時、それはその相手を癒すことでもあると思う。相手を元気にすることでもあると思う。
社会に愛が足りない、と思う。社会にはやらねばならないことが山のようにある。いつも競争している。そして勝っても負けてもみんな疲れてしまっているようだ。
教会に愛はあるか。私たちが神の言葉に立っているならばきっと愛がある。教会は競争するところではない。愛するところだ。そして愛されるところだ。裁かないところだ。点数をつけない、またつけられないところだ。愛し合い、赦し合い、大事にしあい、いたわり合う所だ。そこで人は癒され元気にされる。
関係
私たちが人を愛するとき、それはその人を癒すことにもなるのだと思う。自分のことを心配してくれる人がいることを知るとき、自分のことを受け止めて貰っていることを知るとき、自分のことを認めて貰っていることを知るとき、そこで癒され元気にされる、ということがよくある。落ち込んでしまって自分ではどうにも仕様がないときでも、誰かと話をすることで途端に元気になるなんてことがある。そんな経験を誰もがしているのではないか。間違いを持ち、罪を持っている自分をそのままに受け止めて貰うこと、そのままに愛されることで人は癒され元気にされる。
人間は人の間と書く、というようなことをよく言われる。人間は人と人との関係の中に生きている。苦しみ悩むとき、結構ひとりぼっちになっている。自分のことしか見えず、だらしない駄目な自分のことしか見えなくなってしまっている時が一番苦しいのかもしれないと思う。そんなときに電話がかかってきて相談されたりすると、急に元気になったりする。相手のために自分に何かができる、ということはうれしいことだ。それは自分がここにいることに価値があるということを教えてくれることにもなるのだと思う。
愛し合いなさい、それは人と人との関係を持ちなさいということでもある。良好な関係を持ちなさい、ということだ。神の第一の掟は愛し合いなさいということだ。それは人との関係を大事にしなさいということだ。そしてそれは人と競争するという関係ではなく、愛し合うという関係、大事にし合うと言う関係だ。
また愛し合いなさいという戒めが一番に来ていると言うことは、自分を鍛え上げて強い人間になるとか、立派な人間になる、間違いのない人間になるとか、堅い信仰心を持つ人間になること、そんなことよりも愛し合うことが大事なのだ、ということだろう。
コリントの信徒への手紙一13章でいわれている通りだ。
そんな愛の関係を持つことをきっと誰もが求めている。そんな関係を教会にも求めているのではないか。教会がそんな愛の関係で結ばれている集まりとなり、そこに多くの人を招き、そこから大きな愛の関係へと広げていきたいと思う。そんなことを考えているだけでなんだか嬉しく元気になる。
愛し合いなさい、なんていうのは教会では使い古された言葉である。愛と言う言葉が世間一般でも盛んに用いられている。教会はもっと違うことを教会独自のものを伝えねば、なんてことも思う。しかしやっぱりここに立つしかない。ここにたち続けるようにと言われている。ここにたち続けることこそが教会の特徴なのかもしれない。どのような者をも愛するという神の愛を受けて、私たちも愛し合いたいと思う。教会こそ、この言葉にどこまでもしつこく立つ続けねばならないのだろう。
教えを越える
愛し合いなさい、というキリストの教え。それを越える者がいる。愛し合いなさい、だけでは駄目だということだろうか。愛し合いなさいということの上に、いっぱいいっぱいせねばならないことを追加しているということなのだろうか。愛だけではだめだ、そんなことだけで教会はやっていけない、ということだろうか。それがやがて愛し合うことよりももっと大事なこととなっていったのではないか。
愛し合うということ、それがすべての根源だ。そこからすべてが始まる。