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礼拝メッセージより
説教題:「罪人であること」 2000年7月16日 聖書:ヨハネの手紙一 4章7-21節
神を知る
「愛することのない者は神を知らない」。
神を知っているか。どうして知っていると言えるのか。教会に来ていたら知ることができるのか、立派な牧師の説教を聞いたから知ったのか。知識としてならばいろんな方法で知ることができる。それで神についての知識は知ることができる。しかし神について知っていることと、神を知ることとは違うことのようだ。
神がとどまる
私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛が私たちの内で全うされている、と言う。互いに愛し合うところに神がとどまるというのだ。
立派に
立派な人間になり、立派な信仰者になり、立派な行いをし、揺るがない信仰を持ち、決して疑いの心を持たない、そんな所に神がとどまるのではない。愛し合うところにとどまるのだ。
私たちは立派な人間にならなければ、立派な信仰者にならなければならないと思っているのではないか。悪いことをしない人間、人に迷惑をかけない人間、邪悪な心を持たない人間、間違いをなくし、正しい人間であることを目指すようなところがある。教会に来ても、礼拝を休まないでいろんな奉仕を欠かさないで、献金もいっぱいすること、そして何が起こっても動揺せず、苦しいことも感謝し、愚痴はこぼさず、いつも笑顔で平安でないといけないような、そんな立派な信仰者にならねばならないと思っているのではないか。
立派になることを目指している。そうすることで認められると思っている。確かにそれを高く評価する人もいるだろう。
しかしヨハネの手紙は、立派な人間になれ、立派な信仰者になれ、とは言わない。あれをしろ、これもしろ、と言わないのだ。誰にも負けないほど立派に出来る者こそ偉いのだ、とは言わないのだ。ただ愛し合いなさいというのだ。神が私たちを愛しておられるように、愛し合いなさいというのだ。
間違いをなくして、駄目なところをなくして、正しく立派になれとは言わない。愛し合いなさいというのだ。人の文句を言っているときには気分がいい、社会の文句、政治家の文句、家族の文句、言う方は気分がいい。そしてなんとなくそれに相づちをうって一緒になって文句を言いたくなる。自分がそれなりにやっていけていると思うときは誰かの文句を聞くのもそれほど悪くない。しかし自分に失望し、不安になり落ち込んでいるとき、誰の文句も聞きたくないと思う。その文句がいつ自分に対する者になるか分からない。
文句を言われることは嫌なことだ。自分の間違いや欠点を責められることはつらいことだ。批判されることで成長するという言い方をすることもあるが果たして本当だろうか。誰かがこんなことを言っていた。自分が批判したことでその人が成長したという人は誰ひとりいない。自分自身も誰かに批判されたことで自分が成長できたというような経験もない。僕も同じだ。自分を成長させてくれたのは誰かのちょっとした誉め言葉であり、自分を認めてもらったということを知ることだ。自分を批判され認められなかったことからいつまでたっても自信を持てないということもある。
恐れ
批判ばかりされていると、こんなんでいいんだろうか、これだけではまだ不十分ではないか、認められないのではないか、また批判されるのではないかという恐れを持つ。しかし聖書は、愛には恐れがない、完全な愛は恐れを閉め出します、という。罰を受けることはない、責められることはない、ということから安心できる。いつ責められるか、いつ罰を受けるか、という思いでいるとすればとても安心してはいられない。完全な愛は恐れを締め出すというのだ。神はもう罰しないのだ。私たちの罰はイエス・キリストの十字架で終わったのだ。だから私たちはもう決して罰せられないのだ。そのことを知ることで恐れがなくなるという。恐れがあるということは、そのことをまだ知ってないということになる。そして恐れがあるから、また他の者のことが気になり、あいつはなんだ、こいつはけしからん、ということになるのではないか。人の欠点が気になるときは、自分の欠点に対する恐れがあるからではないか。そして神の完全な愛を見失っている時ではないか。
教会
批判し非難することが多い社会である。
教会もこの社会と同じように駄目な所を非難し批判するところなのか。教会こそ非難しない批判しない所であるべきではないか。
アメリカのある大きな教会の牧師は、教会のスタッフ同士が、絶対に責めない、いつも誉め合う、そのことを貫徹してきたことが教会が成長してきた秘訣だ、と言ったそうだ。
昔からやっていることは続けなければいけないのではないか、よその教会がやっているようなことをうちの教会もやらないといけないのではないか、というような恐れがある。
そして個人的にも、なんでも立派にこなさないといけないと叱られるのではないかという恐れがあるのではないか。礼拝の司会を間違ってはいけない、教会の奉仕をするにもぬかりなくしないといけない、そうしないと駄目だと言われてしまいそうな恐れがあるのではないか。あるいは毎日の生活の中でも教会員のくせにクリスチャンのくせにそんなことでどうするんだ、という声がどこかから聞こえてきそうになる。僕も牧師のくせに何をしているんだ、もっとしっかりしろ、何を甘えているんだ、と言われそうな恐れがある。でも恐れがあればあるほど何もできなくなる。そのくせまだ足りない、まだまだ駄目だと言われそうな気がずっとしている。
華々しい活動をしている教会の話を聞くと自分が駄目なような気になってくる。何もできない自分はなんと駄目な人間かと思う。そしてあれも出来てないこれも出来てない、と思ってしまう。
しかし聖書は言う。本当に大事なことは愛し合うということだ。大事にし合うということ、いたわりあうということだ。つい、目に見えるような活動をどれほどしたか、目に見えるよな成果が上がったかどうかということに目を奪われてしまう。しかし本当に大事なのは自分の教会が愛し合っているかどうか、そして何より自分が隣人を愛しているかどうかだ。それこそ吟味しなければならないのだろう。
きっと社会の誰もが、愛される場所を求めている。安心できる場所を求めている。いつ何を言われるかわからないという恐れを、緊張を持たなくてもいい場所を求めている。教会がその場所であるのではないか。ここにいる私たちが一番それを求めているのかもしれない。
神の愛の中にいていいのだ。もっともっと神に近づいていいのだ。大丈夫なのだ。神は私たちを愛しているのだから。私たちを罰することはしないのだ。恐れないで神に近づいていいのだ。
私たちはこんなに一所懸命やってきた、今までこんなことをしてきた、だから神は自分のことを認めてくれるだろう、という思いや、逆に何もできない、やってこれなかった、こんな駄目な自分は神も人も認めないだろう不安、きっといろんな思いがあるだろう。いろんな思いを持ったままで神に近づこう。神の愛に近づこう。神を見上げよう。神が自分をどう見ているかを知ろう。
神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになったというのだ。そういう風に愛されているというのだ。私たちが立派に仕事をこなしたから、忠実に神に聞いたから愛したのではない。何もしていない、何もできていない私たちを愛しているのだ。裸の私たちを愛しているのだ。私たちはいろんな鎧を着る。私にはこれができる、これをしてきた、というような厚い鎧がある。その鎧で裸の自分自身を見せないようにする。鎧を着ることで安心しようとする。しかし神は裸の私たちを愛しているのだ。
神を知る
神を知るということは裸の自分を見つめるということでもある。神が愛している裸の自分を見つめることでもある。そしてそれは罪人である自分を見つめることでもある。
私たちは罪人である自分を隠して生きている。いろんな鎧をいっぱいつけている。でもよろいは結構重いのだ。ありのままの自分を隠すのは結構疲れる。しかしそう簡単に鎧をおろすということもできないだろう。少しでもおろせたら楽になるだろうが。
しかし神は鎧の中の私たちを愛しているのだ。神は私たちの鎧の立派さを問題にはしていないらしい。裸の私たちを愛している。それは罪深い、邪悪な私たちを愛しているということだ。どす黒い思いを持っている、決して誰にも言えないような薄汚い思いを持っている、そんな自分を愛しているということだ。
だから互いに愛し合いなさい、というのだ。
私たちは人に対して否定的に見ることが多い。嘆き泣く者に対しても、そんなにいつまでも泣くな早く元気を出せということが多い。相手を立派な元気な強いまじめな人間に仕立て上げようとすることが多いのではないか。そして自分にできないことまで相手に要求したりする。
でも神はそういう仕方で私たちを見つめている訳ではない。どんなときも私たちも側にいる、嘆き悲しみ失望する私たちのそばに居続けるという仕方で私たちを愛している。
私たちはいろんなことに悩み苦しむ。嘆き叫ぶこともある。それが私たちのありのままの姿ではないか。愛し合うということは、そういうことも含めて認め合い支え合うということでもあると思う。そしてそれは相手の悩みや苦しみや嘆きや叫びをも認めるということだろう。そんなことでどうする、そんなことをしては駄目だ、そんなことを思ってはいけない、というようなことを言わないことでもあるのだと思う。
そんな罪人の私たちのところに神がいてくれているのだ。罪を持った同士、罪に苦しむ同士が愛するところに神がいてくれるのだ。
私たちの間には神がいてくれる。私たちは簡単に愛することもできないような者だろう。しかし私たちの間に神がおられる。互いに神と共にいるという仕方で私たちは共にいるのだろう。神を仲立ちとして共にいる、神に愛されている者同士として神を仲立ちとして愛し合う、それが教会なのだろう、と思う。愛し合い赦し合いいたわり合うこと、それこそが教会の命。私たちの命なのだ。