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礼拝メッセージより
説教題:「本当に知ってますか」 2000年7月9日 聖書:ヨハネの手紙一 2章7-11節
新しい掟、古い掟
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)
「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)
愛することは昔から言われてきていることであった。神を愛し人を愛せ、ということは旧約の時代から語り伝えられていた誰もが知っている掟だった。多分耳にたこができるほど聞かされてきたことでもあっただろう。そして誰もが、そのことはよく分かっている、よく知っていると思っていたことがらだったのではないかと思う。
そんなことは知っている、だからもっと違うことを教えて欲しい、というようなことだったのではないかと思う。自分たちがもっと幸せに暮らせるために、もっと楽しく生きることができるために、あるいはもっと金持ちになるため、もっと楽になるため、ということもあるのだろうか。あるいはまた教会を大きくするために、成長するためにそのために何をすればいいのか、そのためにすべき新しい掟を聞きたい、というような思いを持っていたのではないか。
そして当時の教会でも、新しい掟を伝える者がいたようだ。そんなのは古い教えである、これからはそんなことだけではいけない、もっと高い段階へ行くべきだ、というようなことを教えていたようだ。もっと立派に、もっと完全に、ということらしい。しかしそれが教会の分裂を引き起こす元ともなっていったようだ。
立派
私たちも自分がどれほど立派であるかということをとても気にする。自分がどれほどの仕事ができるか、どれほど知識を持っているか、どれほど正しいか、そんな風に自分がどれくらい立派であるかということをとても気にするようだ。そして周りの者と比べて自分がどれくらいなのかということで自分のことをいいとか悪いとか判断することが多い。
小さい頃からそんな癖がついている。学校の成績がどれくらいかなんてことを小学校に入る前から競争する。いつもテストで50点とる子が80点を取って帰ったところ、その親はすぐにクラスの平均点は何点だったんだ、と聞いたとかいう話がある。今回は80点も取ってすごいじゃないか、ということは言わなかったらしい。
そんな風に自分がどれくらいの位置にいるかを気にし、自分が前に行くことを、自分が立派になることをひたすら目指す社会に住んでいる。自分がどれほど正しいかということを気にする。どれほど正しく生きてきたかを気にする。
正しいこと
新約の当時の教会でもそうなっていったのかもしれない。愛することはずっと昔から言い伝えられてきた。しかしそれだけでは駄目なのだ、あなたたちはまだまだ駄目なのだ、と言う者が現れた。自分たちの方が正しい、お前達は間違っている、そのままでは駄目だ、と言うことになったらしい。どちらが正しいかを主張し合うところに争いが生じ、分裂が起きる。自分の正しさを主張するところでは、相手の間違いを指摘し合うことになりがちだ。相手の間違いを指摘することで自分の正しさを証明したくなる。相手の駄目さを一所懸命に探すことになりがちである。そうすると一瞬優越感に浸ることはできる。でもただそれだけだ。
基本
教会の基本は愛することだ。神を愛し隣人を愛することだ。教会でも、あれをしてこれをして、それからこれもこれもしなければいけない、と言われる。確かにしないといけないことはいろいろある。しかしそれに追われてしまって愛することをないがしろにしているとしたらそれは本末転倒だろう。教会に集まっているのは、集められているのは、まずは愛する為なのだと思う。ただ教会の仕事をするためではない。愛するからいろんな仕事をするのだ。誰かにしろと命令されたから仕方なくするのではなく、愛するからするのだ。教会にとっては愛が命だ。
光と闇
兄弟を愛する者はいつも光の中におり、その人にはつまずきがありません、と言う。愛する者は光の中にいるというのだ。そして兄弟を憎む者は闇の中にいるという。
喜びがない、平安がないという時、実はその原因は兄弟を愛していないからではないか。暗闇の中にいて苦しむとき、それは愛していないせいではないか。
私たちは誰に対しても、その人を愛するよりも評価することに熱心になりがちだ。あの人のあそこはだめだ、あの人はここがいい、なんて見方をすることは得意だ。そしていい人とか悪い人という判断を下す。
自分より立派か自分より駄目かと考える。そんな競争相手として見てしまいがちだ。そんな立派さを競うために教会にきているわけではない。互いの駄目さを指摘し合う為にきているのでもない
愛
愛することが大事であることは知っている、と思ってしまうところが実は一番の問題なのかもしれない。どれほど知っているだろうか。どれほどそのことを真剣に考えているだろうか。
愛だのやさしさだのという目に見えないことはないがしろにされがちだ。目に見えることの方に目を奪われてしまいがち。礼拝の人数がどうだとか、お金がいくら足りないとかいうような目に見えることに目を奪われてしまって、目に見えないことが見えにくくなってしまう。でも多分本当に大事なことは目には見えないことなのだろうと思う。
教会の命も愛なのだと思う。教会が愛する集まりであれば、自然とそこに人は集まってくるのではないかと思う。愛する者がいるところへは誰だって足が向く。互いに愛し、大事にする集まりとなること、実は教会にとってそれが一番大事なことなのだろう。
立派な人間だから愛せるのでもない。立派な人間だから愛されるのでもない。そんなのは関係ないのだ。自分が立派かどうか、そればかりを気にしていては愛せないだろう。また相手が立派かどうかを気にしていても愛せないだろう。一人一人がどれほど立派であるかという思いに捕らわれていては愛せない。
愛するには自分が立派である必要はない。相手が立派である必要もない。
愛するところに喜びがある。愛し愛されるという関係の中に喜びが生まれる。
私は罪人同士だ。間違いを持った同士だ。その間違いを指摘し合ったとしたらいくらでもできるに違いない。でもそれをしたとしたらどうだろうか。そこには憎しみが生まれてくるだろう。そしてそれは闇の中を歩むことにつながる。しかし神は互いの間違いを指摘しあい正せ、とは言わなかった。愛せ、と言うのだ。
間違いをなくせとは神は言わない。相手の間違いも自分の間違いもなくせ、とは言わない。愛せというのだ。間違いが合ってもいいのだ。足りないところがあってもいいのだ。それをなくそうとすることの方に無理がある。相手を正しい人間にすることも、自分を正しい人間にすることも無理がある。
正すのではなく愛せ、と言われる。仮に正しくなったとしても、それはその人だけのこと、自分だけのことでしかない。神はひとりひとりがどうであるか、どうなるか、ということよりも、両者の関係を大事にするようにと言われる。愛すると言うことは相手との関係を持つことだ。そんな愛の関係を持つようにと聖書は一貫して告げる。
そして愛する者は光の中にいると言う。
評価する対象として見るときと、愛する対象として見るときでは同じ人でも違って見える。愛する思いで見るとき、きっと世界は違って見える。そしてきっと見えるだけではなくて実際に変わって来るだろう。
教会に愛を満たすためにはひとりひとりが愛を持つことしかない。その愛はキリストが神が私を愛しておられるところから生まれる。間違いを一杯持った、罪を一杯持った私たちをキリストは神は愛しておられるのだ。キリストは私たちの間違いを、罪をご自身の十字架の死によって背負ってくださったのだ。そのように私たちは愛されている。神は私たちの罪をいちいち指摘して、私たちの間違いをほじくり返して責めることはしなかった。そんな間違いを、罪を持っている私たちを愛してくれているのだ。その上で愛せと言われるのだ。
愛することはただ単に神の命令ではなく、私たちがよりよく豊かに生きる道でもある。生きていく上での一番大事な掟なのだ。