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礼拝メッセージより
説教題:「味方」 2000年7月2日 聖書:ローマの信徒への手紙8章31-39節
恐怖
小学校の頃から宇宙のことに興味がありいろんな本を見ていた。宇宙の話になるととてつもない大きな数字が出てくる。何万光年、何億光年とかいうやつだ。光が一秒間に30万キロ進む。その光が何万年かかったり、何億年かかるほど遠い所に星があるとかいうのが出て来る。どんなに遠いのか想像することもできないほどだ。何万光年離れている星から出た光が今地球に届いている、ということは実はその星の何万年前の姿が見えているということになる。今見えている星の姿は何万年前の姿なのだ。今見えているどの星も、実は今現在のその星の姿ではない、遠い星ほど昔の姿ということになる。実はもうその星はなくなっているかもしれないわけだ。
ある夜、小学校の高学年の時だったか、そんなことを考えながら古い家の梁を見ていたら、なんだかやけに恐ろしくなったことがあった。なんでそうなったかはよく分からないけれどもやたらと怖くなった。暗闇の中にぽつっと浮かんでいる地球を外から見ているような感じだったように思う。宇宙は星はあるけれどもほとんどが暗闇の世界で、その暗闇に対する恐怖心だったのかもしれない。なんとなく宇宙空間に自分一人が放り出されたような、頼るものが何もないという恐怖心だったのかな、と今になって考えるとそんな気がする。
その頃、キリストのことは何も知らず、神と言っても神社の神で、祭りの時と初詣の時に会いに行くだけ、しかも何ともつかみどころのない存在で結局自分が頼りとする相手ではなかった。だから頼りになるものは何もなかった。知らなかった。宇宙でひとりぼっちというのはやっぱり恐ろしいことだろうと思う。
罪
この個所では誰が私たちを訴えるのか、だれが私たちを罪に定めることができましょうという言葉が出てくる。
もし私たちのすべてを知っているものが私たちを訴えたとしたらどうなることだろう。私たちの間違い、私たちの罪、今までしでかしてきた悪事をことごとく暴かれたとしたら私たちはどうなるだろうか。それに耐えられる人はきっといないだろう。私たちは自分なりにまあいいだろう、と思いつつ生きている。本当に自分の罪を赦されないかもしれないという思いで生きているとしたらそれは大変につらいことだ。いつそれが暴かれるか、罰せられないかという思いで過ごすということになると大変なことだ。あの時あんなことをしてしまった、こんな悪いことをしてしまった、誰かを傷つけてしまったというようなことがいろいろあるだろう。そして自分でも忘れてしまったことまでも指摘され訴えられたとしたらどうなるだろう。そんな自分の裁判が待っているとしたらどうだろうか。何とかして逃げ出したいと思う。自分の罪にふさわしい裁きを受けるとしたらどんな裁きになるのだろうか。恐ろしくなる。
しかし聖書は、誰が私たちを罪に定めることができましょう、と語る。私たちを訴えるのは誰か、私たちを裁くのは誰か。神こそが私たちを裁く方なのだ。神こそが、お前はあの時これをした、これをした、だからその罰はこれこれ、というべき方だ。しかし聖書はその裁き主であるはずの神が、神であるイエス・キリストが私たちのために執り成して下さるというのだ。裁判官、兼検事である神が、何と私たちの弁護人であるのだ。私たちを訴え、私たちを裁くべき方が、私たちの弁護をされる。なんということか。
私たちは自分の行いを真剣に振り返るならば、どう裁かれるかとびくびくしていなければならない存在だろう。しかしその裁きはすでに終わったようなものなのだ。その刑はもう既に執行されているということだ。身代わりとしてイエスが死なれた。だからもうこいつを裁く必要はない、ということなのだ。私がその罰を受けたからもうこいつは赦される、とイエス・キリストが私たちのことを取りなしてくださるというのだ。
イエスによって償いは終わった、だからこれ以上償いは必要ないということなのだ。イエス・キリストの十字架の死によって神は私たちを義としてくださる。私たちを裁くべき神が私たちを義としてくださるから。死んで復活させられたイエスが私たちのために執り成して下さるからだ。
裁き主である神が私たちのために取りなしてくれる。だから私たちを罪に定めるものはもういないということになる。
愛
神はそのような思いで私たちをみつめておられる。そのように私たちを愛しておられるのだ。そしてどんなものもそのキリストの愛から私たちを引き離すことは出来ない、と聖書は告げる。
この手紙を書いたパウロは、艱難も苦しみも迫害も飢えも裸も危険も剣も私たちをキリストの愛から離すことは出来ないという。そして死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない、というのだ。
しかしだからと言って私たちに艱難も苦しみもなくなる、と言うわけではない。「わたしたちは、あたなのために 一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と言う。これは詩篇の44篇の23節のことば。
私たちはいかにももうすぐ屠られる、殺されるように、死の危険にさらされている様なものである。艱難も苦しみも襲ってくる。私たちを神から神の愛から、これらは引き離しそうである。それぞれにいろんな苦しみに遭っている。私たちはいかにも無力である。いろんな苦しみを跳ね返す力もない。
しかしパウロはこれら全てのことにおいて、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めている、と言う。艱難苦難を前にして今にも押しつぶされそうな私たちである。しかし私たちを愛して下さる神によって、イエス・キリストによって私たちは輝かしい勝利を収めているというのだ。圧倒的な勝利を収めている、というのだ。
実際にはパウロの苦難は大変なものであったらしい。パウロがイエスと出会い、それは劇的な出会いであったようだが、それによりイエスに聞き、したがう人生へと変えられた。そしてそれまでのイエスをキリスト教を迫害していたものが、キリスト教を伝えるものとなった。しかしそうなったパウロでも苦難がなくなったわけではない。
例えば・・・コリントの信徒への手紙二
11:23 気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
私たちが想像も出来ないような苦難に遭っている。しかし、パウロはそんな苦難に遭いながらも私たちは勝利を収めている、輝かしい勝利をおさめているというのだ。それまでのどんな艱難でも、パウロをイエスから、イエスの愛から引き離すことはできなかったのだ。
苦しみがあったけれどもなんとかイエスの愛に繋がっておれた、ということではない。どんな苦しみも、イエスとの愛の繋がりを断ち切ることはできないと言っているようだ。
苦難がなくなったその先に勝利があるというのではない。苦難のただ中にある時にも圧倒的な勝利にあるのだ。私たちは苦しみに遭うとき、どうして私がこんなことになるのか、神を信じているのどうしてこんな目に遭わなくてはいけないのか、どうして神はこんな目に遭わすのかと思う。
私たちは苦しみに遭うとき、そんなふうに神が自分と敵対していて、私たちを見放しているか、あるいは懲らしめようとしているというように思うことが多いのではないか。神が自分のことを見放した、あるいは罰しようとしていると思う。苦しみに遭うということは、神と自分が別の所にいる、神が自分から離れている、そして神が自分の敵である証拠ではないかと考える。
何かいいものをもらった、自分の願いがかなった、それこそが神に愛されている、神が味方である証拠であると思うようなところがある。だから思うようにいかないときには神から離れていると思い、苦しいときには自分の何かがまずかったがために懲らしめをうけているような気になる。
しかしパウロはそうは言わない。神が私たちの味方であるという根拠は、御子をさえ惜しまず死に渡されたということである、ということだ。イエス・キリストが私たちのために十字架で死なれたということだ。それこそが神が味方であるという根拠だ。そのイエス・キリストを父なる神は復活させた。そしてそのイエス・キリストが父なる神の右に座って私たちのために執り成して下さっている。それこそが神が私たちの味方であり、私たちを愛しているという根拠だ。そうやって神は私たちを神の味方として下さっている。私たちを神のものとしてくださっている、というのだ。神が味方であり神に愛され続けている、神のものとされ続けているというのだ。だからいろんな苦しみもキリストの愛から私たちを引き離すことは出来ないのだ。
艱難も苦しみも迫害も飢えも裸も危険も剣も大問題だ。そんなのが私たちに迫った来たらひとたまりもなくつぶされそうに思う。しかしそんな大問題でさえもキリストの愛から私たちを引き離すことはできない、と言うのだ。どんな問題が起こっても神が私たちの味方であるからだ、神が私たちを愛しているからだ、神が私たちを神のものとしてくださっているからだ。苦しみに遭うことはとても辛いことだ。しかしそれは私たちが神に見放されている証拠でもなんでもない。この命がつきることは神から捨てられたことではないのだ。
かつてパウロはキリスト教を迫害していた人物だった。つまりキリストの敵であったのだ。しかしそのパウロのためにキリストは執り成して下さるのだ。彼の味方となって下さった。神が味方になって下さったのだ。キリストの愛によって、神の愛によって、神は自分の味方になってくれた、というのだ。神がパウロを味方に加えてくれたと言った方がいいのかもしれない。神は私たちも味方に加えてくれた。
神は何があろうと、いつでも、私たちがどんなに駄目なときでも、どんなにつまらない者でも愛し続けてくださる方だ。私たちを自分のものとして守ってくださる方なのだ。
生きて行くには苦しみも悲しみもいっぱいある。いろんな出来事に苦しみ、またいろんな出来事に悲しむ。つらいことがいっぱいある。思うようにいかないことがいっぱいある。いかにも敗北者のようであるかもしれない。誰からも見捨てられてしまったかのようであるかもしれない。誰にも相手にされずにひとりぼっちにされてしまったかのようであるかもしれない。
しかし神は、イエス・キリストは私たちを愛してくれているのだ。大事に大事に思ってくれているのだ。私たちは自分がどん底に落ちてしまったかのように思うことがある。もうはい上がれないような深みにはまってしまったかのように思うこともある。しかしその深みのさらに下から神は私たちを支えてくれているのだ。私たちが生きるときも死ぬときも、私たちの根っこを神はしっかりと支えてくれているのだ。どのような苦しみや悲しみにあっても、それは私たちがひとりぼっちにされたということではないのだ。どこにいても、どんなときでも神は私たちと共にいて下さるのだ。そして決して私たちををひとりぼっちにはしない。
死
死によっても私たちは神の愛から引き離されることはない。神は私たちが生きている間だけの神ではない。私たちが生きている間だけ私たちを愛しているのではない。私たちの今のこの命が終わっても、神は私たちを愛してくれるというのだ。死は神が私たちを見放したことによって起こるのではないのだ。死によっても私たちは神の愛から引き離されることはないのだ。
先に召された方々も、今もその神の愛の中にいるということだ。生きることをも死ぬことをもすべてを支配しておられる神の愛の中にいるのだ。すべてを支配しておられる神が私たちの味方となってくれているのだ。神は、私たちも、先に召された方々も味方に加えてくれているのだ。
やがて私たちも死ななければならない。死ぬ瞬間そこで何が起こるのか私たちにはよくは分からない。想像するとぞっとするような恐怖心におそわれる。しかしその瞬間にも、そしてその後にも、神はイエス・キリストは私たちの味方であり続けてくれるというのだ。神が私たちを見捨てないで共にいて下さるというのだ。
神は私たちを真っ暗闇の中にひとり放り出すことはしない。死ぬときも、死んだ後も、私たちは宇宙の暗闇の中をひとりぼっちで漂うことはない。先に召された方々が今もこの神と共に、神のみ手の中にいるように、私たちもその瞬間も、どんな時にも、同じように神の手の中にいるのだ。神の愛の中にいるのだ。