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礼拝メッセージより
説教題:「出来ない」 2000年6月25日 聖書:ルカによる福音書18章18-30節
議員
『ある議員』がイエスに走り寄ってきた。この人は金持ちであったと書いてある。ここと同じ話はマタイによる福音書にもマルコによる福音書にもでてくる。マタイではこの人は青年と書いてある。若い金持ちの議員ということか。社会的にも認められている立派な青年ということだろう。
この人は自分からイエスに尋ねる。聖書にはイエスを試そうとか、罠に掛けてやろうとかいう人がたびたびでてくるが、この金持ちはどうやらそういったたぐいの人たちとは違っている。イエスを尊敬していて、教えていただきたいことがある、この偉大な先生から聞きたいといった気持ちから、善い先生と言ったのだろう。金持ちという人は威張っている人が多いようなイメージがあるが、この人はそんな人ではなかったようだ。
そしてこの人の質問は「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」というものだった。この人はかなり謙虚な人のようだが、それに信仰深い人でもあるらしい。とても信仰熱心である。
その後のイエスとの会話によれば、律法は小さいときからずっと守っている、つまり、ユダヤ人が先祖から代々伝え、これを守るようにと教えられてきた十戒に代表される律法はしっかりと守ってきたということだ。それも自信を持って人に言えるほどに。全く敬虔な人のようだ。金持ちにくせに、どうすればこの金が増やせるかとか、どうやって減らないようにするか、といったことばかりを心配するのではなく、永遠の命のことを考えている。全くよくできた人間といった感じ。こういう人こそイエスからお褒めの言葉をもらってもいいんじゃないかと思う。あなたは立派な人だ、あなたの熱心さはすばらしい、その向上心が大切だとか何とかいってあげても良さそうな気もする。
しかしイエスはこの人に対して、あなたに欠けているものが一つある、なんてことを言う。なんとそれは財産を全部売り払って施しなさい、ということだった。なんということを言うのだろうか。この人がどうやって財産を多くしたかは分からない。資産家の家に生まれたのか、それとも一所懸命働いてためていったのかもしれない。その財産を売り払って貧しい人に分けてやれ、なんて言われて、はい、ではその通りにしましょう、と言うわけにもいかないだろうに。この人はイエスのことばを聞いて非常に悲しんだと言う。そりゃそうだろう。しかし何でイエスはそんな厳しいことを言ったのか。
永遠の命
ところでどうして、何でこの人はイエスに永遠の命のことを聞きに来たのか。律法はしっかり、きっちり守っている。自他共に認める立派な信仰者だったようなのに、それ以上何を聞きに来たのか。まさかイエスに誉めてもらいたいがために来たわけでもあるまいに。
今の教会で言えば、敬虔なクリスチャンと言われ、礼拝には毎週毎週出席し、収入の十分の一は必ず献金し、教会の奉仕もよくして、おまけに社会的にも信用があり、堅実な仕事をしている金持ち、と言ったところかもしれない。すべきことと言われていることは完全にこなしてきた人だったのだろう。しかし彼には何かが足りなかったのではないか。あるいは完全主義者だったのだろうか。もしまだ足りないものがあっては大変だと思っていたのかも。あるいは永遠の命の保証がほしかったのか。イエスに、おまえは大丈夫だと言ってほしかったのか。いつも百点を取っていることで認められると思っていたとすれば、いつどこで減点されるかと心配になったとしても不思議ではない。ずっと緊張していなければならない。これでいいんだろうか、という不安もきっとぬぎい切れないだろう。
イエスは「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言う。どこにも抜かりのない人間のように見える。たぶんだれもこの人に対して欠けているところなど見いだせないであろう人に向かってイエスは欠けているという。そしてそれは「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言うものだった。この人はイエスの言う通りに出来なかった。だから悲しんだ。彼は自分の財産を売って施すことが出来なかった。
しかしイエスは、全部売ることが大事なんだ、財産を持っていることが悪いんだとイエスは言いたかったのか。財産を手放すことが、そして施すことが永遠の命を得る条件だと言いたかったのか。財産を手放せないから永遠の命を得られないのだと言いたかったのだろうか。今はまだ99点、財産を売って貧しい人に分ければ100点、それで合格と言いたかったのだろうか。たぶんそうではないだろう。
ではイエスは何を言いたかったのか。それはこの人が、永遠の命を受け継ぐために何をすればいいのか、と聞いてきたからではないか。つまり自分が何かをすることで永遠の命を手に入れようとすることに対して、それは違うんだ、と言いたかったのではないか。永遠の命は人間が何かをして手に入れるものではない、ということを言いたかったのだろう。
だから何かをして手に入れるとするならば、律法を守ることは知っているではないかと答えた。それに対してそれは守っていると答えたこの人に対しては、そこまで言うならば、つまり何かをすることで永遠の命を得ると言うならば、自分の財産を売って施しなさい、もしそこまで出来るなら、自分の行いによって永遠の命を得ることも出来る、と言いたかったのではないか。つまり自分で何かをしてその代償として永遠の命を手に入れようとしても出来ないと言うことを言いたかったのではないか。永遠の命なんてのは自分が何かいいことをいっぱいしてそして、神と取引をして手に入れるものではないんだ、と言うことを言いたかったのではないか。
今日の聖書のすぐ前のところでは神の国の話が出てくる。子供のように神に国を受け入れる者でないとそこには入れない、とイエスは言った。永遠の命と神の国は同じことを言っているのだと思うが、それは何かを持っている人のものではなく、何も持っていない者のものだと言うことになる。神の国は受け入れる人でなければ入れない、と言われる。受け入れる人が入ることが出来る。自分で努力して手に入れる人が入るのではないらしい。自分が何かを持っているから、そこに入ることが出来る、手に入れることが出来ると言うものではないと言うことだ。財産をいっぱい持っているから永遠の命を持つことが出来るのではない。善い行いをいっぱいしたから持つことが出来るのでもなく、揺るがない信仰心を持っているから、神の国に入ることが出来るのでもない。そんな優れたものを立派なものを持ったから入ることが出来るのではないのだ。永遠の命はただ受けるものなのだ。神からいただくものだ、自分の力で手に入れるものではない。そのことをイエスは言いたかったのではないか。
もらう
神の国のためには、永遠の命のためには、ただ神に頼る、ただ神から頂くしかない。どういうふうにすれば手に入れられるなんていう方法はない。だからどんな立派な人に聞いてもその方法は分からない。それは神が与える物なのだ。だから、この人がイエスに対して最初に、善い先生と呼びかけたときに、イエスは「なぜ、私を善いと言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」なんて屁理屈のような、いやみのようなことを言ったのかもしれない。自分を神として聞いているのか。それともただの有名な教師として聞いているのか、それが大事なことだったということではないか。立派な先生になら、永遠の命を得る方法を聞くだろう。しかし神になら永遠の命を下さいと願うだろう。この人の間違いは、財産を捨てられなかったことというよりも、イエスに対してただの偉い人として教えを乞いにいったということ、そして自分の力で永遠の命を得ようとしたことではないか。
とにかく永遠の命を持つために、また神の国に入るために、何をなすべきなのか、それはただ神にそれをもらうしかない。自分たちの側で何かなすべきことは、というか自分たちで、人間の側だけで出来ることは何もない、ということのようだ。
ない
いろいろと多くの物を持つことを人は願う。財産を持ち、名声を持ち、良識、常識、そして実績を持とうとする。善いことをこんなにたくさんしてきた、こんなにたくさんのささげ物をしてきた、いっぱいいろんな物を積み上げて、そしてそれを天にまで届かせようとするかのように思うことがある。教会の中でもいろいろの実績を積みたがる。こんなに教会に尽くしてきたか、奉仕してきた、こんなにいっぱい献金したなんてことを思うことがある。そうやって自分がどれほどのものを持っているかということを一所懸命に気にする。ここまでやったんだから永遠の命はもらえるだろうとか、何も出来てないから神の国に入れてくれるはずはない、なんてことを思う。しかしそんなことはないということだ。持ち物は神の国に入る手段ではない。永遠の命を得る手段ではない。これだけすれば神の国に入れてもらえるだろう、永遠の命をくれるだろうと思って奉仕しているとしたら、イエスは私たちにもこの金持ちに言ったと同じようなことを言うのではないか。
私たちはもうすでに神の国を約束されている、永遠の命を約束されている。神の子とされている。このことを受け入れる者はすでにそうなのだ、とイエスは言う。
イエスはそのために、私たちを神の子とするために、神に国に招くために、永遠の命を与えるために十字架にかかったのだ。私たちの罪を赦すために十字架で死んでくださったのだ。そのことで私たちは赦されているのだ、神の国に招かれているのだ。私たちのすべきことはそのことを受け入れること認めることだ。私たちのなすべきことはこの十字架を見上げていくこと、イエスに従うことだ。
もうすでに神の子だから、神の国の一員だから、永遠の命を約束されているから、だからこの神に従うのだ。もうすでにそうだから、それにふさわしい生き方をするのだ。奉仕も、善いことも、捧げ物も、神の国を、永遠の命を得るための手段ではない。この金持ちはそれがいかにも手段だと思い、どうすればいいかと聞いてきた。だからイエスはそうではないんだ、と言いたかったのではないか。だから人間の努力で神の国に入ることは出来ない、しかし神には出来るのだ、と言われた。だから神に頼るしかない、そしてこの神は頼ってくるものをしっかりと受け止めてくださる方なのだ。私たちがすべきことは自分の持ち物に頼るのではなくて、神に頼ることだ。
私たちは神を前にして自分の駄目さを嘆き、自分に何もないことを嘆くことがある。こんなに駄目な罪深いだらしない人間を、何も持ってない人間を神が愛してくれるはずはない、きっと見捨てられると思うことがあるのではないか。しかしそうではない。神は、お前は何も持ってない、何も出来てない、だから帰れ、もっと一人前になってから出直してこい、とは言わないのだ。疲れ果て倒れこんでしまうしかないような私たちを神はしっかりと受け止めてくれるのだ。何もない、ただ神に頼るしかないというものを神はしっかりと受け止めてくれるのだ。
分ける
神がそのように私たちを受け止めてくれている、どんなときにも共にいて支えてくれる。そのことを知ることによって財産を売り払って貧しい人に分けることもできてくるように思う。そう簡単ではないが。
イエスは財産をしっかりと自分が抱えているのではなく、貧しい人に分けなさいという。自分に何が出来る、自分が何をした、自分が何を持っている、というような自分だけを見つめるのではなく、自分の周りにいる人、自分の隣にいる人のことを見つめなさいということだ。一所懸命に持つのではなく、分けるようにということだ。それが天に富を積むことでもあるということのようだ。天の富って何のことだろうかと言う気もするが、とにかくそのように隣人との関係を大事にして生きなさいということだ。
これを持っているとか持っていないとか、あれが出来るとか出来ないとか、自分だけを見つめるのではなく、何も出来ない何も持ってない自分をもしっかりと受け止めてくれる神を見つめなさい、また同時に隣人を見つめ自分の持っているものを分けて生きるように、イエスは私たちにもそう言われている。