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礼拝メッセージより
説教題:「友を得るために」 2000年6月18日 聖書:ルカによる福音書16章1-13節
不正
ある金持ちの一人の管理人の話。どう考えたらいいのかさっぱり分からない箇所。
ある教会の礼拝でここの箇所の説教をした。一人の人が後になって牧師に、あの時の説教はよくわかりました、でもまた分からなくなりました、もう一度説明して下さい、と言った。ところが牧師は、その時にどんなことを言ったか良く覚えていない、その時には話せたが今ではもうできない、と言った。そんな話を聞いたことがある。そんな難しい箇所だ。
賢く
ひとりの管理人が主人の財産を無駄遣いしたことがばれてしまった。彼は解雇されることになったが、その後のことが不安である。土を掘るような力仕事もできない、かといって物乞いをするのもためらわれる。そこで彼は主人に借りのある人達の借りを少なくして、その人たちに友達になってもらおうとした。不正をしてまでも友達を持とうとした。
金持ちはこの管理人がしたことをほめた。それは賢いことだとイエスは言う。
何が賢いのか。もちろん不正をすることが賢いわけではないだろう。不正は不正である。彼は自分の不正がばれそうになった時に、自分を助けてくれる友を持つことを考えた。何とか友を得ようとした。つまりはそれが賢いことだったのではないか。
それまでは自分一人が力を持つことで生きようとしていたのだろう。自分が金を持ち、権力を持つこと、何もかも持つことで生きていこうとしていたのだろう。それができると思っていたのだ。そこには自分に何があるか、自分が何を持っているか、自分がどうなのかということばかりに関心が向く。
しかしこの時この管理人は自分を助けてくれる友を求めた。自分に何もなくなりそうになった。不正がばれてしまって自分の地位もなくなる。当然収入もなくなる。自分の持っているものがなくなるという危機に際して、彼は友を持つことを考えた。一生困らないだけの金を蓄えようとするのではなくて、友を求めた。自分が何を持っているかということよりも、自分と友との関係、繋がりをを求めていこうとしている。周りとの繋がりを持つ生き方をしようとしている。そのことを賢いと言っているのだろう。
不正にまみれた富で友達を作りなさい、と言われている。本来は不正の富と言うよりもこの世の富というような意味らしいが、この世の富で友達を作れという。そうすれば永遠の住まいに入るてもらえるというのだ。
友
自分は立派にやってきた、これからもやっていける、人に頼る必要などない、と思っている時、自分一人で生きていけると思っている時には、周りに頼ろうとすることもない。自分はこんなに立派にやっていると思っている時には周りを見下すのが関の山だろう。周りの者と友達になろうとすることもない。誰かと友となろうとすることもない。あるいは困っている誰かの友になってやらねばということはあったとしても、誰かに是非とも自分の友になってほしい、ということにはならない。しかしとても自分一人では生きていけないと言うときには、誰かに助けてもらいつつ生きていかねばならない。なんとしても友が必要になる。誰かに是非友になって欲しい、というその気持ちでいること、それこそが大切なことだ、とイエスは言っているようだ。自分にとっては友が必要である、なんとしてもその友を持たねばならない、そうやって友との繋がりを持たないとやっていけない、そのことを知ること、それは永遠の住まいに入れてもらうこと、神の国に入れてもらうことにもつながることというのだ。
そして実際私たちは、自分一人では生きていけない、誰かと助け合いながら生きていくしかない生き物だ。助けたり助けられたりしながら生きていくしかないのだ。自分も助けられる人間であることを知ること、また自分も支えられる人間であること、それを知ることがまた大事なことなのだろう。
この世の子ら
その点、この世の子らは光の子らよりも賢く振る舞っている、という。光の子らとは、神のことを知っている者ということだろうか。知っていると思っている者と言った方がいいかもしれない。
自分たちは神のことは良く知っている、おまえ達とは違うのだ、という思いを持っている者のことかもしれない。俺達は神のことを知っている者、おまえ達は知らない者、俺達はお前達よりも優れているんだ、だからおまえ達の世話になどなる必要はない、おまえ達と友達になる必要もない、と思っている人のことだろうか。自分は立派な信仰を持っているんだ、と思っている人のことだろうか。自分は信仰を持っているのだから、信仰を持っていないあなた達とは友達にはなれないのだ、と思っている人のことかもしれない。そう思って自分の信仰を一所懸命に守ろうとしている者のことかもしれない。
私たちは信仰においても財産においても自分を守ろうとするところがある。自分自身の中に確固としたものを持つことで自分を守ろうとする。確固とした信仰、多くの財産、確かな地位や名誉、それらによって自分を守ろうとすることが多い。
しかしそんなものを持つことが出来ない者にとっては、自分だけで自分を守れない者にとっては、友を持つことはとても大事なこととなる。友との関係を持つことがとても大事なこととなる。自分は立派だと思っている者、そしていかに自分を立派にするかということに一所懸命になっている者よりも、自分には何もないと思っている者の方が却って周りとの関係を大事にしているということなのだろう。
目
この管理人は自分の不正がばれて、自分の地位が危うくなってきたことによって自分の見つめるところが変わってきたのだろう。それまでは自分自身のこと、自分の持ち物、つまり自分の地位や自分の財布の中身を一所懸命に見てきたのではないか。しかし自分の不正がばれるという危機に直面してから管理人は周りの者を見るようになった。周りの者とどうつきあっていくかということを見るようになった。それまでは自分のことばかりを見つめていた者が、周りの者を見るように、周りの者との関係を見るようになった。そしてそれが彼の賢さなのだろう。
そこで彼は主人に借りのある者たちのことが目に入ったのだ。彼らが苦しい生活をしていることはもちろん知っていたのだろうが、このとき初めて彼らの苦しみに気づいたのではないか。彼らの苦しみを多少でも軽くすることを考えた。そうすることで友となってもらうことを考えた。
彼はここぞとばかりに不正を重ねて自分の蓄えを増やすことはしなかった。いつまでも自分のものばかりを見つめたわけではなかった。そうではなく自分の外を見るようになった。友を持つことを考えた。彼はお金に自分の将来を託すということをしないで、友との関係に将来を託したのだ。
関係
私たちも自分のことにばかり注目することが多い。自分の持ち物にばかり注目することが多い。自分の立派さを追求することが多い。
自分の名声をあげること、財産を多くすることには熱心だ。自分がどう立派になるか、立派であるかということには目が向いている。
自分の立派さを追求することよりも、周りとの関係を大事にするように、とイエスは言っているのではないか。自分が大きく立派になることよりも、友を得ることの方が大事であると言われているようだ。友となるためには相手をしっかりと見つめないといけない。相手がどうであるかを知ることなしには友とはなれない。相手の苦しみや悲しみを見つめることなくしては友とはなれないだろう。そんな周りとの関係を大事にするようにとイエスは言われているようだ。自分が立派になるかどうかよりも、周りとの関係をしっかりと持つこと、それこそが大事なことなのだ、とイエスは言われているのではないか。
それは信仰的なことでも同じだろう。自分がいかに立派な信仰を持っているか、確固とした揺るがない堅い信仰をもっているかどうかということの方に目が向きがちだ。しかし大事なのは私たちがどんなものを持っているかということよりも、神との関係がどうであるかということだ。神とのしっかりとした関係があるかどうかだ。本来はそれを信仰と言うのだろうけれども、自分がどんな信仰を持っているか、ということに目が向きがちなのではないか。
私たちはそんな風に自分が何を持っているかということにばかり気を遣いすぎているのかもしれない。自分がいかに立派で正しくあるか、ということを求めすぎているのかもしれない。立派で正しいことはいいことだが、度が過ぎると、立派でない正しくない者をつい責めることになってしまう。あるいはその人を評価することになってしまう。
自分がどうであるかというふうに自分のことばかりを見つめるのではなく、周りの者を見るように、まわりとの関係を大事にするように、とイエスは言われている。実はそうすることで却って自分のことが見えてくるのだろうと思う。私たちは人との関係、また神との関係の中で生きていかねばならない者である。だからこそその関係を大事にしていきたいと思う。