前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「土台」 2000年6月4日 聖書:ルカによる福音書6章46-49節
平野の説教
今日の箇所は6章20節から始まる平野の説教の締めくくりの部分。
平野の説教では、貧しい人々、飢えている人々、泣いている人々は幸いであると言われた。敵を愛しなさい、憐れみ深い者となりなさいとも言われた。人を裁くな、人を罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさいと言われている。
行い
そして今日の締めくくりのところで、私を主よ主よと呼びながらなぜ行わないのか、とイエスは言う。
キリスト教は聞いて信じることを大事にする。しかしただ聞いてそれだけで終わっていたとしたらそれは本当のキリスト教ではない、ということだろう。話を聞いて、今日はありがたい話でしたとその時には思うけれども、家に帰るとまるで関係のない生活をしている、としたらそれは実は聞いていると思っているけれども本当には聞いていない、ということなのだろうと思う。
イエスは確かに簡単には出来そうもないことを言っている。愛しなさい、赦しなさい、与えなさいと言っている。確かにそれは大事なことだ、そうしなければいけないんだけれど、私にはそんなこと出来ません、と言ってすぐに投げ出してしまったとしたら、それは実際には聞いてないのと同じだ。
礼拝の時には神妙に、愛し合いなさい、赦し合いなさいとか聞いたその後ですぐに、あの人はどうしてあんなに駄目なんだ、どうしてあんなことばかりしているんだ、と悪口を言っていたとしたらそれは聞いているとは言えないだろう。
聞く
イエスの言葉を行う者こそが、しっかりとした土台の上に家を建てた人に似ている、という。
多分聞くことと行うこととは別々のことではないだろう。本当に聞いたなら、確かにその通りだと思って聞くなら、それこそが大事だと聞くなら、その聞いた通りにしようとするだろうと思う。聞くことは聞くこと、行うことは行うこと、と分けることはできないだろう。行わない、その言葉のようにしようとしない、ということは実は本当には聞いていない、ということなのではないか。
イエスは平野の説教でいろいろと言われている。愛しなさい、赦しなさい、与えなさいと言われている。それを私たちはどう聞いているのだろうか。出来ないことだと聞いているのだろうか。出来ないことだから私には関係のない話として聞いているのだろうか。いつか出来ればいい目標として聞いているのだろうか。額にでもいれていつもながめるのに丁度いい立派なありがたいお言葉として聞いているのだろうか。それとも自分にとって大事な言葉として聞いているのだろうか。自分の生き方のしるべとして聞いているのだろうか。
イエスは、わたしの言葉を聞き行う人が岩の上に家を建てる者に似ている、という。たしかな土台の上に家を建てる人に似ていると言う。それも地面を深く掘り下げた上で、その下にある岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ているという。
ということはイエスの言葉は額に掛ける単なるありがたいお言葉ではなく、出来もしない理想論でもなく、私たちの人生の土台となるものである、ということだ。イエスの言葉の上に立つことが、その言葉に従って生きること、それは堅い土台の上に人生を立てるということなのだ。どうせ出来ないからとか、ただのお題目でしかない、と言ってその言葉を真剣に聞かない者は、ただ地面に家を建てたような者に似ているという。
掘り下げ
では掘り下げるとはどういうことなのか。
主の言葉をずっと抱きしめ続けること、考え続けること。分かった気になってすぐにどこかにしまい込まないことかもしれない。
イエスの語った言葉を噛みしめ続けることでもあるだろう。また自分の語った言葉も噛みしめ続けることでもあると思う。
あんなことを言ってしまってまずかったかな、いやな思いをさせてしまったのではないかな、と思うことがある。自分が完全に正しいと思っている時にはそんなことは思わない。相手の方が間違っていると思っている時には言ってやったとしか思わない。しかし人は完全ではない。完全に正しいなんてことはない。人の生き方に正しい間違いを簡単には判断できない。たとえその時は正しい側にいたとしても、だから相手を責める資格があるというわけではない。
地面を深く掘るとは、自分を掘り進むことかも。愛すること、裁かないこと、聞くだけならまったくごもっとも、きれいなすばらしい言葉である。しかしいざそれを実行するとなると大変。
いやな奴を愛する、自分と考えの違う人のことを受け入れるということは並大抵のことではない。イエスがそういうから、そうしんさいと言っているんだからそうしましょう、とはなかなかならない。それを邪魔するものがある。こんな奴のことを、と思う気持ちがある。あんな奴のことはどうでもいいんだ、あんな奴はもっと苦しめばいいんだ、と思う。また愛し、受け入れるのではなく、それではだめだ、そんなことをしているからそうなるんだ、それは当然の報いだ、ざまあみろと思う。あるいはそこまでいかなくても、受け入れるよりも相手を変えようとすることが多い。その人の考えや苦しみや悲しみを考えるよりも、早く元気出しなさいよ、いつまでもそんなこと言っているの、甘えるのもいいかげんにしなさい、なんてことを言ってしまう。
つまり結局は自分の考えや都合を押し付けることになってしまう。イエスはその前にこうしなしなさいということをいろいろと言われている。自分はそのイエスの言葉を聞く。そんなことなかなかできないよ、とか思いつつ聞く。しかし隣人に対してはそのイエスから聞いた言葉を語るのではなく、イエスが言われたようにその人に接するのではなく、そのイエスとはまるで関係のない自分の思いやいわゆる社会の常識を語ってしまう。世間はそんなに甘くないんだ、なんてことを言ってしまう。そんなことが多いのではないか。教会でもありがちである。
そんな風に私たちとイエスとの間にはいろんな障害となるものがある。その障害を掘り進んでいって、自分の語る言葉がイエスに根ざしていることなのか、イエスが私たちに語っておられる言葉なのか、それを考える必要があるのだろう。掘り進んでいって堅い土台を見つけそこに立つことが大事なのだろう。
地面を掘り下げて、下から私たちを支えている土台であるイエスの立って、イエスの言葉を語ってあげたいと思う。イエスの言われているように隣人に接したいと思う。
共に
私たちは自分の立派さを目指すことに目がいきがちである。自分がどんなに立派になっているか、なれるかを目指す。誰からもすごい、と言われたい、誰からも責められることのないように落ち度のないようにしなければと思う。
教会もそうではないかと思う。誰に見せても恥ずかしくない教会、立派な組織を作って、いろんな活動をして、こんなによくやっているんですよ、と言いたいと思う。人数を増やして、大きくすることを願う。しかしただそれだけだとしたら、大きく立派にすることが一番の目標になったとしたらどうなんだろうか。それはイエスの言葉の上に立っていることなんだろうか。
イエスは、教会の人数を増やせ、堅い組織を作って強い立派な教会にしろ、と言っているだろうか。世界中に福音を伝えなさい、とは言われている、しかしそれは自分たちの組織を大きくするためにそうしなさい、ということではないだろうと思う。そんなことよりも、神があなたを愛している、あなたはひとりぼっちではないんだ、あなたの罪は赦されているんだということを伝えなさい、ということだろうと思う。
イエスが言われていることは、立派になりなさい大きくなりなさい、ではなく、愛しなさい、赦しなさいということだ。
私たちは自分のことや自分の教会のことを立派に大きく成長させようとすることを願う気持ちがある。もちろんそうなれば嬉しいことだが、もし中身のない見かけだけのものだとしたら悲しい。目に見えるもののことばかりを整えようとすることで大事なことを見失うことがある。本当に大事なものはだいたい見えないものだ。見えないことに目を注ぐことが大事だ。きっと命そのものも目には見えない。
ある教会に、20年来の教会員の人がガンになり手術をし、その後の経過も順調で、久しぶりに礼拝に出席しそのことを感謝しておられたそうです。でもその少し後でその方は自殺したんだそうです。
また別の教会では、夫婦とも教会員でしたが、病気の妻とずっと二人で暮らしていた夫が、いよいよ妻の容態が悪くなり妻の死が目前に迫ってきた時に自分が先に自殺した人がいました。
教会ってなんなんだろう、と思います。ガンの苦しみや死への恐怖、愛する者を失うことへの恐れ、クリスチャンはそんな者を超越してしまったんでしょうか。教会でも、愚痴をこぼしていると、そんなこというもんではありません、というような言葉を聞くことがあります。信仰があるんだから悲しんでいてはいけない、元気にしとかなければいけない、立派にしとかなければいけないんでしょうか。その人がどんなに悲しくつらいかを聞くよりも、早く元気になって下さいね、ということの方が多いのではないでしょうか。本当はつらくしんどいのに、そんな顔を見せてはいけないような、無理にでも元気に立派に見せてないといけないような、元気な時じゃないと教会に行けないような面がないでしょうか。
私は信仰者なんだ、だから何があっても大丈夫、と言っていないといけないんでしょうか。落ち込んだけど祈って元気になりました、と言わなければいけないんでしょうか。神を信じているから死は全然怖くありません、と言わなければいけないんでしょうか。そう思ってないとクリスチャン失格なんでしょうか。
そんなことないと思うのです。教会は立派な人間や強い人間や常識的ないい人間を製造する工場ではないと思います。教会は、教会だからこそ、ありのままを語れる所なのではないでしょうか。死への苦しみや、いろんな人間関係の苦しみを出せる所なのではないでしょうか。人生に疲れ、ぼろぼろになってやってくる所、重荷を負って、嘆きをもって来るところ、それが教会なのではないでしょうか。そんな教会としたいと思うのです。
私たちに自殺した人の苦しみがどれほど分かるかはわかりません。自殺を思いとどまらせることができるかどうかもわかりません。しかし少しでもそんな苦しみや嘆きを聞けるようなそんな教会になりたいと思います。
愛しなさい、赦しなさい、与えなさい、とイエスは言われました。立派に強くなるというような、自分のことに目を向けることではなく、隣人に、誰かに、そして教会に来る人にそのように接するように、イエスはそう私たちに語っておられるようです。
苦しみも悲しみも間違いも持った者同士が、いわたり合い赦し合い、調和すること、それこそが教会の目的であろうと思います。
愛しなさい、赦しなさい、与えなさい、というイエスの言葉を実行すること、それこそが私たちが確かな土台の上に生きることなのです。