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礼拝メッセージより
説教題:「圧倒」 2000年4月30日 聖書:ルカによる福音書5章1-11節
かつて
イエスはかつてシモンの家で、シモンのしゅうとめが高い熱を出していたのをいやしたことがあった(4:38)。シモンはきっとその時にすでにイエスに会っていたのだろう。あるいはもっと前から噂を聞いていたかもしれない。その時彼はイエスのことをどう思ったのだろうか。すごい力を持った人だと思ったのだろうか。
彼にとってはその出来事はかなり心に残っていたに違いない。そしてその後またシモンはイエスに出会う。それは湖での漁を終えて網を洗っていた時だった。イエスはシモンに船に乗せて少しこぎ出すように頼んだという。そこで群衆に教えはじめた。その後、イエスはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言ったというのだ。初めてみる変な人から漁をしなさいと言われても多分しなかっただろう。見ず知らずの人からそんなこと言われてもその通りにするはずがないだろうと思う。しかしシモンは姑の病気を癒した恩人であった。そういうこともあってそのイエスの言葉に従ったのだろう。
何をおっしゃる
しかし彼は疲れていた。夜通し漁をしたのに何も取れずに帰ってきて、網を洗っていた。魚が捕れていればまだしも、一所懸命に働いたのに魚が捕れないという何ともしんどい時だったと思う。一番気が乗らない、やる気が出ない状況だったのだろう。もうくたくたになっているところへ、もう一回やってみろ、なんて言われてもなかなかそうは出来ないものだ。
そんなことしたってできっこないよ。そんなことしたって無駄に決まっている。何にもならない、どうせだめだ、そんな思いがある。今までも同じ用にやってきたのになんにも効果がなかった。今更やったってどうにもならないよ、というような気持ちになる。
純粋
しかしイエスはそんなシモンに対して、漁をしなさい、と言うのだ。漁の素人であるイエスが漁師のプロに対して指図するのだ。シモンにとっては半分以上したくない気分だったのではないかと思う。しかしそれでもシモンはイエスの言葉に従った。しぶしぶ、いやいやながらイエスの言葉に従った。そして大漁になった。
純粋な心こそ大事だ、と言われている。邪念が入るということはよくない、と言われる。そんな風に言われてきたような気がする。何をするにしても純粋な心でしないと意味がないようなことを聞かされてきた。しかし本来人間の心がただ純粋だけということがあるのだろうか。多分ないだろうと思うようになった。何をするにしてもいろんな計算をしながらである。いわゆるいいことと言われていることをするにしても、これをすればみんなからよく思われるだろう、相手から感謝されるだろう、なんてことを考える。ただ純粋に相手のためだけを思って、なんてことにはなかなかならない。これは僕だけのことなのだろうか。相手のためということがあってもやっぱりそれだけでにはなれない。
そんなことではいけないのではないか、と思った時期があった。誰かの助けになることをするのに、少しでも邪念が入ってはいけないのではないか、と思うようになったことがあった。そう考えはじめると何も出来なくなってしまった。しばらくしてから、邪念が入るのは仕方がないことだと考えはじめた。大事なのは、自分の助けようと思う心がどれほど純粋であるか、ということよりも、相手の助けになるかどうか、それこそが大事なのではないかと考えはじめた。邪念があってもしょうがない、むしろそれはなくせないのではないか、ならば邪念を持ちつつ、できるだけ相手の助けになれるならばいいのではないか、と思うようになった。そうすると手助けすることへの抵抗感がだいぶ減ってきた。だからといって、そんなに助けになるようなことをしょっちゅうしている訳ではないが。
教会でも、信仰において純粋であることがすばらしいことであるように言われているように思う。一点の曇りもない、ほんのかけらも疑いを持たない信仰こそがすばらしい信仰であり、疑いや迷いを持つことは不信仰なのだというようなことが言われことがある。確かに疑いや迷いがない信仰を持っているならそれはそれでいいのかもしれないが、そうでないから駄目、意味がない、失格である、ということなのだろうか。
シモンはこの時いろんな思いが交錯していたのではないかと思う。こんなに疲れているのに、素人が何を言うのか、しかししゅうとめをいやした恩のある人のいうことだし、あるいはもしかしたら魚が捕れるかもしれない、そうしたらもうけもの、などいろいろな思いがあったのだろうと想像する。シモンが純粋な信仰を持って、疑いやつぶやきを一切持たないでイエスの言葉に従ったわけではないだろう。夜通し働いて何も取れなかった、ということをイエスに言っている。
命令
しかしそれでもシモンは、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう、と言ってイエスの言葉に従った。いろんな思いを持ちながらもイエスの言葉に従った。そしてそのむこうに大漁があった。想像も出来ないほどの大漁となった。
実際に実行することですごいことを経験することになった。いやいやでも、不平を言いながらでも、実際にその言葉に従い実行することで神の力を経験した。
大事なのは、心をいかに純粋にするかということよりも、言われたことを実行する、ということのようだ。シモンは邪念が入ったままでもやってみた、イエスの命令に従って行動した、そこで神の業を経験した。
シモンはあまりのすごさに、「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったという。思いも寄らぬすごいことを経験してびっくりしている。しかしイエスはシモンとヤコブとヨハネにその後もっとすごいことを言った。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」なんとすごいことか。彼らはすべてを捨ててイエスに従った。すごい出来事を経験して彼らは人生を変えられた。圧倒的なイエスの力を目の前にして、変えられたのだろう。自分の努力でなにもかも捨てたというわけではないだろうと思う。
圧倒
シモン達はすべてを捨ててイエスに従った。なぜシモンたちはすべてを捨ててイエスに従ったのか。それはイエスに、圧倒的な神の力を感じたからだろうと思う。病人を癒したり、奇跡的な大漁を目の当たりにしたりすることを通して、イエスの中に力を見ていたからだろう。そしてまたイエスに魅力を感じたのではないかと思う。人生をかけてついていく魅力を感じていたのではないか。そんな圧倒的な力を感じたから彼らは全てを捨てたのだろう。そうせずにはいられないような思いにかられたからだろう。シモン達が勇気を振り絞って、したくもないのにイエスに従ったわけではないだろう。そこに神の力を感じ取ったからこそだと思う。
そして実際彼らはイエスを通していろいろなことばを聞き、イエスの行動を通していろんなことを体験した。もちろん突然シモンが立派な人間になったというわけではない。突然信仰深い敬虔な人間に変わったわけではない。全然変わっていない。シモンはこの後も相変わらずおっちょこちょいな面があり続ける。本質はイエスに会う前とそんなに変わってはいないだろう。しかしそんな者をイエスは弟子としたのだ。弟子として選んだのだ。
神のすごさに、神の偉大さに圧倒された者が弟子となっていった。そしてイエスに従っていった。信仰深い者がなったというわけでも、立派な者がなったというわけでもないようだ。そしてイエスに従っていったことで神の業を、神の恵みを経験していった。何が神の命令か、何を神がしろと言われているのか、それを聞いていこう。そんなことしたくない、そんなこといやだ、面倒だ、誰かがやればいいのに、と思うようなことが神の命令であることもある。そしてそれは私たちに恵みを経験させるためなのだろう。また私たちを新しい世界へと招いておられることでもあるようだ。シモンはこのことから新しい人生を歩み始めた。
実行
イエスの命令のその先には恵みが、喜びがあるようだ。私たちはなんでそんなこと、なんでこんな時に、なんで私に、と思う。しかしその向こうに恵みが喜びが待っている。
私たちはなんだこうだと口実をつけてその命令に従ってないのかもしれない。疲れている、できない、できそうにない、自信がない、そんなことしてなんになる、どうせやってもだめだよ、と思う。
しかしイエスの命令はその向こうに喜びがあるから恵みがあるからそうしろ、と言っているのではないか。
だからイエスの声を聞いていこう。イエスの業に私たちも加えてもらおう。そして神の業を見せてもらおう。そして神の偉大さを私たちも経験させてもらおう。きっとそこには私たちのまだ知らないようなすばらしいものがある。
私たちもまた神の働きに招かれているのだと思う。そして神のすばらしさをみせてもらおう。