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礼拝メッセージより
説教題:「途上に」 2000年4月23日 聖書:ルカによる福音書24章13-35節
エマオ
エマオの途上。エマオはエルサレムから60スタディオン、約11km離れた所へ向かう途中の話し。イエスが十字架で処刑された後の出来事。
不信
女たちが天使からイエスの甦りを知らされたが使徒たちは信じなかった。愚かな話しだと思えた。そのことがすぐ前のところに書いてある。使徒たちはイエス自身が復活すると言っていた事を何度も聞いていたはず。でもこのときそのことをすっかり忘れているかのようだ。それが本当に起こる事とは思っていなかったのか。
このエマオへ向かう二人の弟子たちも同じように愚かな事と思ったのだろう。この二人にイエスが、イエスの方から近づいてきた。しかし彼らにはそれがイエスとはわからなかった。
イエスは「何を話しているのか」と問いかける。弟子たちは暗い顔をして立ち止まった、と書かれている。彼らにとって十字架の出来事は悲しい出来事だったのだ。悲しみに打ちひしがれていた。落胆し失望していたことだろう。だからこそ目の前の人物がイエスとは気付かなかったのかもしれない。
弟子たちはエルサレムで大騒ぎになっている話しを知らないのかと逆に問い掛ける。力ある預言者であったイエスが処刑され三日目になる、ところが婦人たちは天使から、イエスは生きている、と告げられたと言い、墓からも遺体はなくなってしまった。
イエスが処刑されてしまったショックはとても大きかったのだろう。自分たちがこれぞと思ってついてきた師匠が殺されてしまった。それこそ人生をかけてついていったイエスがこともあろうに十字架でまるで罪人のように処刑されてしまった。なんでこんなことになってしまったのか、その気持ちが整理できないうちに、今度はイエスが生きているという話しを聞き、遺体も見つからないという。天使が復活したと言い、実際遺体もなくなっているんだからその通り復活したのだと思えばいいような気がする。でも弟子たちはなにがどうなっているのかさっぱりわからない、一体何が起こっているんだ、といった状況のようだ。頭の中がパニックになっていたのだろう。
納得
イエスは弟子たちに対して、かねてから預言者を通してメシアは苦しみを受けて栄光に入ると伝えられているではないか、と教えられた。弟子たちもそのことは多分よく知っていたのだろう。知ってはいたがこの時は思い出せなかったのか。知識としては知っていてもそれが実際に起こることとは思っていなかったのかもしれない。
彼らはこの時のイエスの説明によってそのことをやっと理解した、本当に納得したのではないか。それまでは頭では分かっていても、心では分かっていなかったのではないか。
彼らはイエスを自分たちと同じ所に泊まるように誘い、そこで食事を共にした。食事の時になってやっと彼らはその人がイエスであることがわかった。イエスが甦ったことをやっと知った。しかしイエスだと分かった途端イエスは見えなくなったと言う。
イエスは見えなくなってしまった。しかし今度は彼らは失望しない。
燃える思い
彼らはイエスが道で話している時に自分たちの心が燃えていたことを感じていたという。そこでイエスは聖書を解き明かした。その相手がイエスだった、それが復活のイエスだったことを改めて知った。イエスを見るだけでは分からなかった、心が燃えることもなかった、しかし聖書を聞くことで、聖書の言葉を聞くことで、聖書の言葉が心に入ってきて、心が燃えたのだ。聖書の言葉が心に入ってきたことで、目の前にいるイエスが分かったのだろう。
聖書
聖書もただの本、ただの印刷物である。確かにその通り。この本自体がありがたいのではない。この本を拝んでも何にもならない。この本を高い棚に飾っておく必要もない。しかしこれを読む時、あるいは聞くとき、その言葉が心のうちに入ってくる。言葉を通して神が、神の霊が私たちの心の中に入ってくる。その時、その言葉は私たちの心を燃やし、私たちの心を熱くさせる。
自分で自分の心を熱くして読むのではない、御言葉自身が私たちの心を熱くさせる熱を持っている、力を持っているのだ。
弟子たちはイエスこそ生きる柱だと考えていた。完全にイエスによりかかっていた。しかし突然その柱がなくなってしまい、失望しどうしていいのか分からなくなってしまった。生きる望みさえ失った者もいたのかもしれない。彼らの心は相当混乱もしていたであろう。イエスの処刑を、イエスの死をどう受け止めればいいのか分からなかったに違いない。
失望し落胆しエルサレムからエマオへ行く途中に、つまりそれはイエスから離れていこうとしていた途上に今日の出来事が起こった。
そんな弟子たちの前に復活のイエスは現れた。そしてイエスは彼らに聖書を語った。この時はもちろん旧約だが。
イエスは、俺がその処刑されたイエスだ、なんで俺がわからないんだ、お前たち何を見ているんだ、なんてことは言わなかった。彼らの心の中に言葉を語り掛けた。その言葉によって、彼らはそれがイエスと分かったのだ。
聖書の言葉も心の中に入ってこなければ、聖書も、イエスも、復活も、そしてイエスが今も生きていることも分からないのだろう。
熱い思い
弟子たちは熱い思いを持ってその日の出来事をみんなに伝えた。その日の熱い思いを、感動を伝えていったのだろう。きっと伝えたくて仕方なく、黙っていられなくなって伝えた。
私たちも神の言葉が心の中に入ってくるように、心が燃えてくるように求めよう、聖書を開こう。神はその言葉をいっぱい持っている、聖書の中にはその神の言葉がいっぱい詰まっている。神は私たちに言葉を伝えたくて、心の中に届けたくてうずうずしているのではないか。お前を愛している、お前が大事だ、とてもとても大事だ、その言葉を私たちの耳元で語りかけておられるのではないか。
私たちの現実も厳しい。いろんな大変な状況があることだろう。現実の厳しさが自分を打ちのめす。聖書の言葉なんか聞いてられない、そんなもの信じられない、と思うような出来事がいっぱい起こってくる。もう何がどうなっているのか訳が分からない、どうすればいいのかわからない、ということが起こってくる。
まさにそんな時に復活の弟子達に現れ、語りかけられた。そして彼らはまたエルサレムへと向かった。訳が分からず離れてきたエルサレムへ、イエスが十字架につけられたその場所へ、すぐに帰っていった。
落胆の原因と思っていた、失望の原因と思っていたイエスの十字架は実はそうではなかったのだ。そのことに気づいた弟子達は十字架の立っていたエルサレムへと戻っていった。敗北と思っていたイエスの十字架は実は勝利だった、落胆ではなく希望の素だった、弟子達はそのことを知らされたのだ。そして戻ってきたのだ。失望したその場所へ戻っていった、そして今度はそこから希望を持って歩み始めたのだ。
イースター
今日はイースター。イエスは復活した、させられた。どんな風にか、それは分からない。本当だろうか、とも思う。食事の時イエスと分かった途端に見えなくなったということは、弟子達に見えていたのは私たちの持っているこの肉体とは違うのかもしれない。しかしそれもよく分からない。
しかしたとえイエスが復活して目の前に現れても、そのイエスとの交わりがなければ、会話がなければただの通りすがりとなり、自分とは関係のない話しになる。
逆にたとえイエスと顔と顔を合わせていなくても、イエスの言葉が私たちの心の中にあるならば、私たちもこのイエスと会った事と同じことになる。私たちは彼の言葉によって、聖書の言葉によってイエスに出会う。そしてイエスの言葉は私たちの心をも熱くする。その言葉は生きる力を、平安、安心を与える。私たちの心を、また私たちの全てを支える、そんな力がイエスの言葉にはある。イエス自身にその力があるからだ。私たちはその言葉を通して復活のイエスと今日も会うことができる。私たちにはもうすでにその言葉が私たちの手元にまで届けられている。この聖書の中にそれが詰まっている。私たちを燃やし生かし力づける言葉がもう私たちの手の中にある。そしてこの言葉が心の中に入ることで私たちも復活のイエスとの出会うことになる。それこそが本当のイースターなのだろう。イエスとの出会いがあるからこそ、イースターおめでとうなのだ。