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礼拝メッセージより
説教題:「備え」 2000年3月5日 聖書:ヨナ書1章1節-2章1節
選民
ヨナ書は変な話し。列王記下14章25節にヨナという預言者が出てくるそうだが、そのヨナとこの物語がどれほど関係があったかはよくわからない。これが歴史的に本当だったかどうかということを問題にするよりも、ここで何を言おうとしているのか、それを知ることが大事。
ヨナはユダヤ人。そのヨナに神が命じる。ニネベへ行け。しかしヨナは思う、冗談じゃない、あんなところへ行けるか。神がニネベの人たちに何を言おうとしているのか、詳しくは分からない。悪がはびこっていたことでただ裁きを告げることなのか。それとも悪を悔い改めるようにということなのか。多分悔い改めを勧めにいけ、ということだったのだろう。
ヨナはヤッファに向い、そこからタルシシュに向かう船に乗り込んだ。ヤッファは地中海岸にある町で、タルシシュとはスペインの町らしいが、東の方角になるニネベとはまるで反対方向へ向かったわけだ。それも人々に紛れ込んで神から見つからないように逃げようとした、というのだ。そしてうまく逃げられたはずだった。
ところが神は嵐を起こしてしまう。船乗り達はあわててそれぞれ自分達の神に助けを祈りつつ積み荷を捨ててなんとかその嵐を乗り切ろうとした。しかしヨナは船底で寝ていた。他の者たちが大騒ぎしている中で、ヨナは一人船底でぐっすり寝込んでいた。もうどうにでもなれ、ということだったのだろうか。どうせ神から逃げてきた、今更神に祈ることもない、ここで死ぬならそれまでだ、ということだろうか。船長はヨナに対して、起きておまえの神に祈れ、と言う。しかしヨナは祈らない。ヨナよりも周りの者たちの方が断然信仰的である。
誰のせいで嵐が起こったのかということでくじを引くと見事にヨナにあたった。やっぱり当たったか、というところだろうか。ヨナは自分を海に放り込めば嵐は収まると告げる。しかし船乗り達はそれを聞いてもなんとか自分達の力で陸に着こうと努力する。彼らは信仰的であり思いやりもある人たちだ。外国人であるヨナに対しても、それも神の命令に逆らい、神から逃げてきたヨナの命をなんとか救おうと努力している。しかし結局は駄目で、仕方なくヨナを海に放り込む。その時には主に祈ったという。すると嵐は見事に収まる。そこで人々は主を恐れ、いけにえをささげたと書いている。何と敬虔な人たちか。ヨナとは対照的である。
一方、海に投げられたヨナはそのまま海の藻屑になるはずだった。ところが神は巨大な魚に命じて海に落とされたヨナを飲み込ませる。そしてヨナはその魚の中で三日三晩を過ごす。そこで彼は祈った、というのが2章のところになる。
民族主義
なぜヨナは素直にニネベに行かなかったのか。
ユダヤ人以外の人間が嫌いだったのか。ユダヤ人以外に神の言葉を伝えることがいやだったのか。ユダヤ人だけが特別と思っていたのか。
今の日本にも民族主義が台頭している。日本民族はすばらしい、というようなことを主張する人たちもいる。確かにすばらしいところをすばらしいと認めることはいいと思うが、だから日本人のすることが何もかもいいことだった、と言うわけではないだろう。日本人は特別で他の民族よりも優れているというわけではないだろう。日本人の誇りを持て、という事を言うこともよく聞く、ほとんど理屈抜きで日本人であることを誇れというようなことを聞くけれども、そこには日本人は他の民族よりも優れているんだ、自分達はあるいは自分は他の者よりも優れていると思いたいというような気持ちがあるように聞こえる。
ヨナにもそんな民族意識があったということだろうか。ユダヤ人は特別なのだ、異邦人とは違うのだ、だから異邦人とは関わりたくない、ということだったのだろうか。しかしそれならタルシシュへ行くということもないはずだが。
特別アッシリア人が嫌いだったのだろうか。歴史的にもユダヤ人はアッシリアから痛めつけられていた過去があった。そんなやつらのために自分が働くなどもってのほか、いくら神の命令でもできることとできないことがある、ということだったのかもしれない。それも考えられなくもない。しかしそれでも何も地の果てのタルシシュ迄行かなくても、俺は行かない、と言えば済むことのように思う。
タルシシュへ向かったということは結局は神から逃げようということのようだ。神の命令から逃げようということだったのだろう。神の手の届かない地の果てに行ってしまおうということだったのだろう。つまり地の果ては神の手が届かない、神の目の届かないところ、という気持ちだったのだろう。神はイスラエルの神、イスラエルを離れれば神は追っては来ない、ということだったのだろう。やっぱり心の中には神はユダヤ人だけの神、イスラエルだけの神という意識があったのだと思う。そして無茶なことを命令する神から逃れようということだったのだろう。何がなんでもニネベには行かないということだったらしい。
嵐
しかし神はイスラエルにだけいるのではなかった。ユダヤ人だけの神ではなかった。全世界の神だったのだ。ヨナは神から逃げることはできなかった。ヨナが逃げる事ができる場所はなかったのだ。ヨナは自分が乗り込んだ船が嵐にあった時、もうすでにそのことを感じていたのだろうと思う。嵐が自分のせいであるということがほとんど分かっていたのだろう。そしてくじがあたることでそれが確実なものとなった。
ヨナは神から逃げようとしたけれども逃げられないということを知って、もうどうでもよくなったのではないか。神の命令に背いて神から逃げようとしたけれども逃げられない、だからといってではニネベに行きましょう、とはやりなかなかならないだろう。神の命令には従いたくない、しかし逃げるところもない、ならばもう死んでも仕方がない、ということだったのではないか。殺すなら殺せ、ということだったのではないか。だから自分から海に捨てればいい、と言ったのだと思う。
あきらめない
しかし神はそのままヨナを殺す事はしなかったというのだ。大きな魚を使ってヨナを守ったというのだ。神の命令に背き、神から逃げようとして逃げられず、もうどうでもいい、死んでもいい、と思っていたかもしれないヨナだった。そのヨナを神は守ったのだ。かなり荒っぽい方法ではあるが、神は自分のところから逃げようとするヨナのことをまだあきらめてはいない。なんとかヨナを呼び戻そうとする。なんとしてもヨナを連れ戻そうとする。神に魅入られたら逃げられない、ということなのかな。
委託
こんなことやってられない、と思うことがいっぱいある。教会の中でもそうだ。何で私がこんなことをしなければいけないのか、と思うことがいっぱいある。そんなことしたくない、と思うようなこともいっぱいある。面倒くさい、大変だ、忙しい、いやだ、と思うこともいっぱいある。もうやめた、しらない、やってられない、と私たちが思うときにも、神はやっぱりおまえがするのだ、おまえにして貰いたい、と言われているのかもしれない。
三日
ヨナは三日間魚の中にいたという。この三日とは何だったのか。ヨナは三日間をどう過ごしたのか。その後ヨナは神の命令通りニネベに向かう。ヨナはその三日間何を考えていたのだろうか。
その後ヨナはすっかり立派な敬虔な人間になった訳ではないようだ。しかし彼は神の命令に従いニネベに行ったことで神のことをもっと知ることになる。神の愛をもっと知ることになる。
神の命令に従うのは、そのことによって神のことをもっと知るためかもしれない。神の愛をもっと知るためかもしれない。
なかなか従えない私たちだ。いろんな思いがそれを邪魔する。教会の中にいる自分たちこそ信仰的であると思うようなところがある。クリスチャンとなった私たちは特別きよいのだ、という思いがある。いろんな思い違いや間違いを持っている私たちだ。しかしそんな私たちもきっと神は見捨てはしない。神に逆らう私たちも神は見捨てはしない。そんな私たちをも神は包み込んでくれている。そしてきっと私たちそれぞれにそれぞれの務めを託されているのだ。これはおまえにして貰いたい、という務めを託されているのだ。神と共に生きるため、そして誰かと共に生きるための務めを託されているのではないか。それは私たち自身が豊かに生きるための務めなのだと思う。