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礼拝メッセージより
説教題:「回復」 2000年2月27日 聖書:アモス書9章11-15節
裁き
アモスはずっとイスラエルに対して裁きの言葉を告げてきた。しかし裁きはただ裁くためだけではなく、回復するため。
関係を持つための裁き。関係を回復するための裁き。正常な関係を持つことを願っての裁き。
正義
イスラエルは経済的な繁栄を謳歌していた時代だったようだ。しかしアモスはそのイスラエルに裁きを告げてきた。正義が行われていないこと。貧しい者、弱い立場の者を虐げてきたことに対する裁きだった。隣人との関係が破綻していることは神との関係も破綻していることの現れだったようだ。そして神との関係の破綻から国も破綻していった。実際この時経済的には繁栄していたイスラエルもその後国が滅んでしまうことになった。
回復
しかし神はそのイスラエルに回復を預言する。大きな恵みを預言する。裁きがあり苦しいことを経験する。しかしその後に大きな恵みを約束する。裁きは神との正しい関係を持つためなのだ。イスラエルの正すことが裁きの目的のようだ。イスラエルに罰を与えることが目的ではない。イスラエルに怒りをぶつけることが目的ではない。私はよく回りに怒りをぶつけてしまう。怒りの矛先を子どもにぶつけたりする。偉そうに叱りながら、でも実際は自分のいらいらを子どもにぶつけているだけのことがある。しかし神の裁きはそうではないようだ。イスラエルを正しい道に戻すことが目的なのだ。そして神との正しい関係に戻すことが目的なのだ。そのための裁きだったのだ。
変革
しかし裁きは辛いことである。そこでは変革を迫られる。まちがいを正されるということはそれまでの自分を変えることにもなる。自分を正しくするために変えなければいけないわけだ。そのままにいくことを望むが、それでは何も変わらない。間違っていることをそのままにすることは間違ったままになってしまうということだ。間違っていることは変えなければならない。
すごく当たり前の話だがこれがなかなかむつかしい。人はなかなか変わりたがらない。自分を変えたがらない。
去年のバプテスト大会で出産の時の話を聞いた。出産の時、産道を通って子どもが出てくる。その時子どもも狭い所を通るので大変な苦しみがある。そして母親も、自分の身体を広げられる苦しみがある。両者の苦しみがあって新しい命が誕生する。もし母親が苦しいから出るな、と言ったら新しい命は誕生できない。新しいものを生み出すには、生まれる方にも生み出す方にも苦しみ痛みが伴うものだ、そんな話をしたと記憶している。
自分を変えることには痛みが伴う。苦しみがある。自分を正すということは大変なことだ。
この社会もなかなか変わらない。いろんな利害関係があって、利権によってなりたっている。その利権を誰もが手放したがらない。自分の儲けになることであれば、その儲けをみすみす捨てたくはない。自分の得になることにしがみついていたい。人がどうであれ自分だけはいい思いをしたい、なんとか自分の利益は守っておかねば、そんなふうに思う。
回復
神はイスラエルの人々に対し、彼らの罪を告げてきた。弱い者や貧しい者を虐げてきたこと、それは悪いことであると言ってきた。神に命じられたささげものはしているが、そういう儀式は守っても弱い者のことを省みることはしていなかった。イスラエルはそんな神に背く民になってしまった。だからその罰を与えるという。それはその罪を知らせるためだったのだろうか。自分達の間違いに気づかせるためだったのか。そのことでイスラエルは自分達の間違いに気付きそれを正したのだろうか。正したかどうかわからない。
正すかどうかということを見極める前に、神は彼らに恵みを約束される。その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃虚を復興して/昔の日のように建て直す。という。見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き/ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ/すべての丘は溶けて流れる。と言う。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み/ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み/園を造って、実りを食べる。と言う。
イスラエルがどれほど正常になったかということを見た上で確かめた上でそうするとは言われていないようだ。まともになったらそうしてやろう、だからまともになれ、とは言っていないようだ。
子どもに向かって、これをしたらこれをやる、という取引をよくしてしまう。おとなしくしていたらお菓子を買ってやる。ちゃんと言うことを聞いたら遊びに連れて行ってやる。なんていうふうにいろんな条件をつけて自分の思い通りにさせようとすることがある。実際は取り引きというより、半分脅迫に近い。弱い立場の子どもに半分脅しをかけているようなものだ。
しかし神はイスラエルに対して、そんな条件はつけていないようだ。その日にはこうする、と一方的に約束しているようだ。その日には多くの収穫があり、元の繁栄を取り戻すようになるという。あなたたちがまじめに自分の声を聞くようになったならば、多くの収穫を得られる、とは言っていない。まじめになったなら、元の繁栄を回復してやる、と言うのではない。
むしろ、その収穫や繁栄の回復を約束することによって、イスラエルを正しい道に引き戻そうとしているようだ。間違っていることは間違っていると言う。間違いをどうでもいいというわけではない。その間違いを知らせるために苦しみにも合わせるという。しかしそれだけではない、そのあとには恵みを与えるということも言うのだ。恵みを与えるために、その恵みをきちんと受け取れることができるようにと間違いを指摘し、正すようにと言われているのかもしれない。
安心
イスラエルの人たちは神との関係を正しく持つために献げ物をしてきた。しかしその献げ物をすること、その儀式をどう守るかということにばかり気を使って、結局は神を忘れてしまった、神を見なくなったようだ。これでは何のための献げ物だったのかという気がするが、その結果彼らは神との関係を見失ってしまったのだろうと思う。神との関係がなくなったことで、神が恵みを与えられること、神から恵みが与えられるということを次第に忘れてしまって、自分のことはなんとしても自分で守らねばならない、自分が守らなければ誰が守るのか、というような気になっていったのではないか。そうやって必死に自分で自分のものを自分自身を守ろうとしていったのではないか。そうなってくると、少々汚いことをしても、誰かのものをかすめても奪っても仕方ない、そんなことより先ず自分のことだ、人のことなど構っていられない、そんな余裕はない、そんなふうになっていったのではないか。
そんなイスラエルに対して、神はここで大きな恵みを約束する。多くの収穫と繁栄の回復を約束する。恵みを与えるのは私なのだ、私が恵みの主なのだ、おまえたちを守るのは私なのだ、私がお前たちを守り恵みを与えるのだ、だからおまえたちは私を見なさい、私の言葉を聞きなさい、そして自分のことだけではなく隣人を見なさい、と言っているのではないか。必死になって自分を守らなくてもいい、私がおまえを守る。必死に自分の富を蓄えなくてもいい、隣人から奪わなくてもいい、私が多くの恵みを与える、だから隣人のことをいたわりなさい。貧しく苦しんでいるもののことを省みなさい、私がおまえたちを気遣うように、お前たちはおまえたちの隣人のことを気遣いなさい、と言われているのではないだろうか。
神との関係を見失ったイスラエルの人たちは、神から守られ支えられているという安心感を無くしてしまっていたのではないかと思う。明日の食料をどうしようか、というのはとても大変な問題だ。もしそれを自分の力だけで手に入れないといけないとしたら人のことなど構っていられなくなるだろう。しかし神の手の中にいるということを知ることで、自分達に必要なものは神が準備してくださるということを知ることで安心できるならば、隣人のことにも目がいくだろう。
大丈夫だ、私がたくさんの恵みを与えるのだから、だから安心して生きなさい。私との関係の中に生きなさい。私との関係の中で安心して生きなさい。そこで同時に隣人との関係を持って生きなさい。奪い合い責め合う関係ではなく、いたわりと愛の関係を持って生きなさい。それこそがあなた方にふさわしい生き方である、と言われているのではないだろうか。
そのふさわしい生き方へと変わるにも、人間の力によって努力によって変わるのではなく、神が備えてくださっていること、支えてくださっていることを知ることで変えられていくのだと思う。