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礼拝メッセージより
説教題:「言葉」 2000年2月20日 聖書:アモス書8章9-14節
昔
学生の頃、礼拝にいっても説教を真剣に聞くなんてことはあまりなかった。それよりも礼拝が終わって教会の行事が終わってからみんなで何をしようか、早く終わればいいのに、なんて思っていた。なんとも不真面目なクリスチャン。
飢饉
神の言葉を聞くことの飢饉が来る、という。あたりまえにそこにあると思っている神の言葉が一切なくなる。それは食料がなくなることと同じようなことだということだろう。生きていく上で欠かすことのできないものがなくなってしまうということだ。
普段その大切さをそれほど意識することもないようなものが、なくなって初めてその大切さが分かるということがある。結構そんなものだろう。もののありがたみはなくなってはじめて分かることが多い。
神の言葉がなくなることが飢饉だとアモスは告げる。それがなくては生きていけないものだというのだ。
神の言葉の大切さがどれほどのものか、私たちは本当はそれほど分かっていないのかもしれない。神の言葉は大切なんだ、聞きなさいよ、教会に来なさいよ、礼拝に来なさいよ、なんて言う。でもそういう私たちがどれほど神の言葉が大切を知っているだろうか。教会で毎週の礼拝で説教を聞いているから神の言葉が大切であることも十分知っているのだろうか。
飢饉で大変な思いをするのは食料がなくて食べたいのに食べるものがないからだ。さて私たちは神の言葉がないことで、その言葉を食べたくて食べたくて仕方ないという思いになるのだろうか。なんとしてもその言葉を食べなくてはおれない、というようになるのだろうか。礼拝を休むと腹が減って仕方ないという思いになるのだろうか。とても次の週まで待てないというふうになるのだろうか。だとしたら礼拝は欠かせない、ということになりそうだ。あるいはいつも聖書を読んでいないといられない、ということになりそうだ。
毎週いい説教が聞けるならとても休んでいられない、となるのだろうか。
どうして
どうしてそんな飢饉となってしまうというのか。どうして神の言葉を聞くことができなくなるというのか。それは4節からのところにかいてある。
イスラエルの人たちはいろんな祭りや安息日を守ってはいる。しかし彼らは、祭りが早く終わればいい、安息日が早く終わればいい、そうすれば仕事ができる、金儲けができると思っていたようだ。祭りや安息日は神との関係を持つため、神との関係を確かめるため、思い起こすためのものだったはずだ。しかしその祭りや安息日に神のことを思わないで自分の商売のことを考えていたというのだ。しかもうまいことごまかして多くの金を手にいれよう、弱いものや貧しい者を安い金で奴隷として買おうと企んでいたというのだ。
そうすると彼らにとっては安息日も祭りも、結局は商売の邪魔でしかなかったのだろう。決められていることだから一応仕事も休んでそのしきたりにしたがってはいるが、形だけは従ってはいるが、ただただ形だけのことになっていたのだろう。
神のことを考えることもなく、神の言葉を聞こうとすることもなかったのだろう。結局は神の言葉も必要としていない状況だったようだ。
その日が来ると主なる神が大地に飢えを送る、という。神が、神の言葉を聞くことができなくなる飢饉を起こすという。その時、人々は神の言葉を探し求めても見つけられないという。
しかし金儲けのことを考え、早く儀式が終わって商売したいと思っている人にとってはもうすでに神の言葉はその人の耳には入っていないだろうと思う。なんとか自分の金、持ち物を増やそうとする者にとっては神の言葉など関係のないものになっているようだ。
神の言葉は、聖書は、弱い者、貧しい者のことをないがしろにするな、その人達の権利を守れ、と繰り返している。もしその言葉をしっかりと聞いているならば、どんなことをしても、不正をしてでも金を儲けようとすることが神の命令に逆らっていることに気づくはずだ。掟は守っていても、神の言葉は心の中に入っていないようだ。もうすでに神の言葉の飢饉がそこで起きているようなものだ。
飢饉
ではどうして神の言葉の飢饉が起きるのか。それはまじめに礼拝しないからなのか、信仰心が足りないからなのか。しっかりと神の方を見ないからか。
4節以下のところを見ると、商人の不正が問題であることが問われている。貧しい者を踏みつけ、苦しむ農民を押さえつけることが問われている。隣人のものを違法にむさぼり、自分の利益を上げようとするところが問題であると言われているようだ。
神の言葉を聞く姿勢が悪いとかいうことが言われてはいない。確かに神の言葉を真剣に聞いていないからそういうことになったのかもしれないが、隣人を苦しめ隣人のものをむさぼることが悪いことだ、そのことのために神は神の言葉の飢饉を起こすと言われている。
自分さえよければ、ということが問われているのではないか。自分さえ豊かになれば周りはどうでもいいと思うことが問われているのではないか。
もしかすると礼拝においても言えることかもしれないと思う。自分が礼拝で満足できればいい、自分が恵まれればそれでいい、自分がそこで神の言葉を聞ければそれでいい、周りの人のことよりも自分である、という思い、それはここで問われている不正をたくらむ商人の思いと同じなのかもしれない。だから誰にも邪魔されたくない、余計なことはしたくない、他の人のために何かするなんてまっぴらごめん、まして自分を犠牲にしてまでも誰かのためになんてことは絶対にいやだ、となるだろう。
神の言葉を聞きたいんだ、自分には神の言葉が必要なんだ、と思うときほど誰にも邪魔されたくないと思う。ところがそうやって他の人のことを放っておいて自分が自分がと思っても余計に神の言葉は見つからないもののようだ。12節「人々は海から海へと巡り 北から東へとよろめき歩いて 主の言葉を探し求めるが 見いだすことはない」これは、俺には神の言葉が必要だ、探しているんだということで、だから俺の邪魔をするな、と自分の隣人のことがまるで目に入らない人の状況と似ているのかもしれない。自分のことしか考えられず、調子のいいときには自分の懐を暖めることを考え、調子が悪くなると神の言葉をくれ、とひとりでわめいているようなもんだろうか。
しかしどうやらそうゆうふうに自分のことばかりを考え、隣人のことを放っているところでは神の言葉を探し求めても見つからないらしい。自分だけのことしか考えないところでは神の言葉は見つからない、あるいは聞こえてこないということかもしれない。隣人と共に生きるところに神の言葉はあるのだろう。隣人と共に生きるところで神の言葉は聞こえてくるのだろう。
飢え
人は誰でも飢える者だと思う。何も食べないと腹が減るように、きっと魂も飢えるのだろう。腹が減れば食べればいい、そして魂が飢えた時には神の言葉を聞けばいい。食料は食べれば食べるほど腹がふくれる。自分が満腹になりたければ自分が食べればいいことだ。
しかしどうやら神の言葉は食料のように自分がどれだけ食べたかというふうに、自分がどれだけ聖書を読んだか、自分がどれだけ説教を聞いたかというその量によって腹がふくれるというのとは違うらしい。神の言葉は自分がどう聞くかということだけではなく、隣人との関係の上で聞くことが大事らしい。神の言葉が自分にとってどういうふうに慰めとなり力となるか、ということと同時に、隣人との関係をどうすればいいのかということを聞いていくことが大事なのだろう。隣人との関係を放っておいて、とにかく自分が満たされようとしても満たされないらしい、自分さえ満たされればいいというところではやがて飢饉となるらしい。
人間はひとりでは生きていけない。人と人との関係の中に生きていかねばならない。神は私たちに対して、自分と神と関係の中で生きるようにと言い、また自分と隣人との関係の中に生きるようと言われている。神との正しい関係、隣人との正しい関係の中に生きようにと言われている。隣人と共に満たされようとすること、あるいは隣人を満たそうとするところ、そこでこそ自分も満たされ魂の飢えも凌ぐことができるのだろう。
だからこそ私たちは教会に集められているのだと思う。集まって礼拝していることが大事だからだろう。ただ自分だけで聞いておけばいいのならば集まる必要はないわけだ。しかしこうやって集められているということは、共に神の言葉を聞き、互いに配慮しあい、いたわり合うことが大事だからだろう。そういう関係が私たちにとってはなくてはならないものだということだろう。それがなくては生きていけないほどの大切なものなのだろう。そうやって配慮し会い、いたわりあうところでこそ神の言葉が聞こえてくる。聖書の言葉が神の言葉となってくるのだと思う。
神の言葉が聞こえない、魂が飢えていると思うとき、それは隣人のことを配慮し、いたわる心が無くなっている時なのかもしれない。