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礼拝メッセージより
説教題:「正義」 2000年2月13日 聖書:アモス書5章14-27節
豊か
豊かになることを目指す−自分の手の中に多くのものを持つことであるならば→搾取すること、弱いもの、貧しいものを生み出すこと、彼らを虐げること。もし自分が何かを持つことによって豊かさを得ようとするならば、それは誰かの物を奪ってくることになる。
しかし私たちの目指す豊かさが、自分が何を持つかということではなく、隣人との豊かな関係を持つことならば、隣人との関係を持つことで豊かになるということを目指すならば、それは誰かの物を奪ってくる必要はなくなる。
今からはそんな豊かさを求めて行かねばならないのではないか。神との豊かな関係、隣人との豊かな関係を持つことを求めていくべきではないかと思う。
主の日
ところがこの時アモスは、主の日を待ち望む者は災いだという。主日礼拝、それが暗い日だという。主の日とは神が来られる日ということのようだ。しかしその日が闇の日となるとアモスは告げる。神の裁きがそこで起こるだろうということらしい。
イスラエルの人々は献げ物によって、神との関係を持っていたはずだ。そもそも儀式、礼拝、それは神との関係を持つことだったはず。しかしそれがだんだんと神との関係が崩れていったようだ。
形は大事、形は必要。しかしそれは神との関係を持つための手段。
形を守ることで自分の成果とするためではない。
礼拝を守りました、休みませんでした、だから合格しました、ということではないはず。神から合格点を貰うために、落第にさせられないために礼拝に出席するのではないはず。つまり自分が何かを達成するため、自分が立派な礼拝人となるため、そう認められるために礼拝に出席するのではないだろう。そこで神と出会うことだ。
神と出会う、神の前に、神の名の下に集まるから礼拝だ。
拒否
神は、当時の祭りを憎み、退けるという。どうして?形だけだったから?心がないから?神を見ていないからかも。神を見ず、神の言葉を聞くことをしない、ただ祭りを守ること、儀式を守ることを目的としていたからかも。
儀式は儀式を守ることが目的ではないはず。そこで神と出会うことこそが目的だ。そこで神の言葉を聞くこと、そして自分の生き方を確かめること。それが目的だろう。自分の生き方、生き様を見つめ直す時でもあるのだろう。礼拝は、その時どれだけ真剣か信仰深いかということが問題ではない。日曜日をどう生きるかということだけが問題ではない。とにかく日曜日に礼拝にいったからそれでいいんだというようなことではない。むしろ礼拝に出席することによって、礼拝から帰ってからどう生きるかが問題だ。つまりその人自身の生き方がどうであるかが問題。礼拝も、礼拝すること自体や礼拝の仕方が問題ではなく、そこでその人がどう生きているかが問題だろう。
当時のイスラエルの人々は貧しい者を虐げ、弱い者を不当に扱っていたと言われている。金持ちや権力者だけがいい思いをし、貧しく弱い者を苦しめている社会となっていたようだ。そして神はそのことこそが問題であると言っているようだ。献げ物をすることが悪いと言っているわけではない。しかし献げ物が献げ物をするという行為だけで終わっていることが問題だと言っているのだろう。今で言えば礼拝することとも同じだろう。礼拝を自分がどう守ったかが問題ではない。礼拝を守ってこれで今週も務めを果たしたと思うような、そんな思いを問われているのだろう。
隣人
イエスは、神を愛し隣人を愛せ、と言われた。礼拝は自分が神のその声を聞くときだ。その神の声の中にはいつも隣人が出てくる。自分ひとりが礼拝でいい思いをすればそれでいいということではないようだ。
礼拝で自分がどれほどいい気分になったかどうか、そんなことを気にする。今日は楽しかった、嬉しかったといい気分で帰りたいと思う。しかしそんなふうに自分がどれほど満足できたかということだけを追求していくところでは、隣人は見えないし、やがて神も見えなくなるのではないか。自分だけを見ているところでは、神も自分を満足させる手段でしかなくなるのではないか。
正義
アモスは、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ、という神の言葉を告げる。
正義を行うとは、「力無き人々のために、弁護者として働くこと」と書いてあった。隣人を大事にするということと繋がるだろう。
私たちはその隣人を大事にしているのだろうか。力無き人々のことをどれほど見ているのだろう。社会の中で苦しんでいる人のことをどれほど見ているのかと神から問われているように思う。苦しい思いをさせられている人たちのことをもっと大事にしないといけないのかもしれない。それは社会的なこととも関係してくることもあるだろうと思う。
社会派と福音派
しかし教会はそんな政治的なことに関わるのではなく、福音を伝えていくべきだと言う声も聞く。社会的な運動に関わることは教会の本来の務めではない、というような声を。
神学校に行っているときに、どっちが大事か、というような話しになったことがあった。福音を伝えるべきか、それとも社会的な間違いやおかしなことを正すように努力すべきか、いわゆる福音派とか社会派とか言われるようなことだが、福音を伝えるべきか、社会的なことをすべきか、どっちにすべきかというような話しになった。どっちが大事かと言われると結構難しいと思う。その時ある先生が、どちらも大事だ、と言った。どっちが大事かという話に熱中していたときに、どちらも大事だと言った。多分その通りだろう。
福音を伝えることはもちろん大事なことだ。神のことを伝えること、神の言葉を伝えることは教会の務めである。そしてそれと同じように社会の問題に関わることも大事なことなのではないかと思う。社会的な構造によって弱い者を苦しめていることがあるとしたら、その構造をどうにかしないといけないのではないか。もし間違っていることがあればそれを間違っているという声をあげねばならないのではないか。それを正していく努力をしなければならないのではないか。
キング牧師(エンカルタより)
1955年アメリカ、黒人女性が白人乗客に座席をゆずるのをこばみ逮捕されたのをきっかけに、キングをリーダーとするモンゴメリーの黒人たちはバス・ボイコット運動を組織し、公共輸送機関での人種差別に抵抗した。キングは逮捕、投獄され、死の脅迫もあったが、56年、連邦最高裁判所が公共輸送機関での人種差別を禁じ、1年以上つづいた運動はおわった。これは、非暴力直接行動の勝利で、キングは公民権運動の指導者として注目されることになった。以降、南部キリスト教指導者会議(SCLC)を組織、非暴力運動を推進する。
アメリカの公民権運動の指導者で、人種差別に非暴力で抵抗した牧師。1929年、バプティスト派の牧師の長男としてジョージア州アトランタに生まれる。17歳で牧師となり、クロイツァー神学校とボストン大学でまなぶ。このころインドの指導者ガンディーの非暴力抵抗哲学に大きく影響された。54年、アラバマ州モンゴメリーのバプティスト教会の主任牧師に任命された。
正義
アモスの時代のイスラエルはどんな状況だったのだろうか。どうだったからこんなに強い調子で言われているのだろう。あるいは今の状況と似ているのかもしれない。自分には関係ないから、自分は苦しくないから、社会的なおかしなことに対しても、別にいいんじゃない、ということだったのかもしれない。私だってそんなに楽じゃないんだ、そんな人のことまで構っちゃいられないよ、ということだったのかもしれない。自分が差別される側ではないから、そんな社会的構造に対しても何も言わないで来ていたのかもしれない。
苦しい人のために募金することもその人のためになる。しかし苦しむ人を苦しめている素のものを取り除くことができればもっとためになるのではないか。
隣人を愛するということはそういうことでもあるのではないかと思う。
実は私たちが何かをするとかしないとかいうことよりも、私たちに愛する心があるかどうかが問われているのかもしれない。
隣人を愛し大事にすることを神は求めている。隣人を放っておいて無視しておいて、いくら献げ物をしてもそんなものを神はまるで喜ばないということだろう。
神との関係の中に生きるように、そして隣人との豊かな関係を持って生きるように、と神は言われているのではないか。
私たちは自分がどうであるか、自分がどう満足できるか、自分がどう豊かになれるかということを目指す。人よりもまず自分である。しかし実は豊かさはまず自分がというところではなく、他者とどう関係を持つかというところにあるのではないか。豊かさは独り占めするところではなく、分け与えるところにあるのだと思う。隣人のことを心配し、気遣い、その人のために努力するところに豊かさがあるのだと思う。それは正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせること、それはそうする自分たちが豊かになることでもあるのだと思う。
そういう豊かさの中に生きるようにと神は言われているのではないか。そういうふうに隣人を愛し大事にするようにと求められているのだと思う。