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礼拝メッセージより
説教題:「とが」 2000年2月6日 聖書:アモス書2章4-16節
背景
ダビデ,ソロモンのイスラエル・ユダ連合王国が分裂して後,160―170年が経ち,南王国ユダはウジヤ王が,北王国イスラエルはヤロブアム2世が治めていた.その頃,北王国イスラエルは,北からの脅威であったアラム及びアッシリヤの衰退によって,失った国土を回復した.「彼は,レボ・ハマテからアラバの海(死海)までイスラエルの領土を回復した」(U列14:25).こうしてイスラエルは第2の繁栄の時代を迎えた
国力を回復したイスラエルは,エジプトからイズレエルの谷を通過してダマスコに抜ける国際幹線道路上の各所に関を設け,関税その他通商上の莫大な利益を独占した.こうして諸国の財宝はサマリヤに流入した.この利益は,サマリヤにおける建築計画を推進することになった
領土の拡大と交易の発展は,北王国に富をもたらした.しかし国力の急激な膨張によってもたらされた物質的繁栄は,不自然な文化の発展を伴い,ソロモンの繁栄を特色付けた社会悪も起った.経済的に潤ったのは国の一部の上流階級のみであって,下層階級はより貧しくなった.都会の上流階級は奢侈(しゃし)に流れ,不公平,圧制,不道徳は至る所で行われ,ことに弱者,貧者は富める者から社会的圧迫と蹂躙(じゅうりん)を受け,実にあわれな状態にあった
社会的秩序の衰退は,同時に宗教的堕落を伴う.いや,むしろ宗教意識の緩みが社会道徳の腐敗を招いたと言える.ヤハウェ礼拝の名のもとに,人々はカナン人のバアル宗教の祭儀を取り入れた.このため人々の霊性は腐敗し,真の神から離れた.イスラエル人は真の神ヤハウェの名において彼らの神に礼拝をささげた.しかし,エリヤの宗教改革以来形式的に厳禁されていたものの,バアル宗教の祭儀も駆逐出来なかったので,民の信仰はこの祭儀を通じて,事実上バアル信仰に復帰した.こうしてヤハウェ礼拝は形式的なものとなり,民は偶像礼拝に陥っていった
アモスの使信は,神の公義と正義を基調としている.アモスの神は正義の神であった.神とイスラエルの理想的な関係は,アモスにおいては正義である.それ故アモスが糾弾する罪は,社会的不正や道徳的腐敗であると共に,その根源となっているイスラエルを選ばれた契約の神からの離反の罪である.アモスは他の預言者と同様,カナン宗教の要素がイスラエルの宗教と結合することに反対した.カナン宗教は道徳的原理を変更し,民を不道徳,不行跡に導き,主の公義を踏みにじらせたので,アモスはそのような宗教を痛烈に攻撃したのである
使信
アモスは社会の不正を暴いた.目先の繁栄や驚異的な経済成長の背後を射抜く目で,彼は抑圧されている貧しい者の存在を見た.金持の贅沢な暮しが貧しい者の抑圧の上に成り立っていると叫ぶ(6:1‐7).富む女たちに対して,「弱い者たちをしいたげ,貧しい者たちを迫害」している(4:1)と非難する.法廷においてさえ,金持が裁判官に賄賂をつかませるので,貧しい者には希望がないと怒る(5:10‐15)
イスラエル社会の不正は,必然的に神の審判の告知をもたらした.主との契約と律法を捨てたイスラエルに対して,主はさばきを予告される.主はもはやイスラエルを見過されない(8:2).主が厳しい審判を執行されるので,民は地から除かれる(参照5:17).主が北王国イスラエルを破壊されるので,民は捕囚の地に連れて行かれる,とアモスは告げる(7:11,17)[実用聖書注解]
裁き
アモスは南王国のユダの人であったが、このアモス書は来た王国のイスラエルに対する言葉である。
しかしこのアモス書の最初の所ではいろいろな国に対する主の言葉が語られる。イスラエルの人にとってはそれは外国のことであった。いろいろな国について神から示されること、そしてそれはどれもが三つの罪、四つの罪という言われているように罪についての話を聞かされることになったということだろう。一章の所では、ダマスコ、ガザ、ティルス、エドム、アンモン、モアブ、そして二章ではユダが出てくる。それぞれに罪があることを示される。
それを聞くイスラエルの人たちのきもちはどんなだったのだろうか。他の国の罪を聞くことはどんな気持ちだったのだろう。他人事だと笑っていたのだろうか。あいつらはやっぱり悪い奴らだと嘲笑していたのだろうか。神と一緒になって裁いている気持ちになったのだろうか。
自分に関係のない人の悪口を聞くのは結構楽しいものだ。一緒になってその人の悪いところを並べ立てたくなる。あそこも悪い、ここも悪い、あれも駄目、これも駄目と人の悪口を言い出すときりがない。ただただ悪口を言うのが好きなからか、それとも悪口をいうことで、自分はまだましだと思って安心するからだろうか。そんな時は大体が自分のことは棚に上げている。自分はすっかり聖人君子になったような気持ちで人の悪口を言う。本気で自分のことを振り返ってしまうとそう簡単に悪口は言えなくなってしまうだろう。
イスラエルの人たちが他人事だと思ってこの罪の話を聞いていたとしたら、そうだそうだ、あいつらは全く罪深い悪い奴らだと、と思いながら聞いたことだろう。ほとんどみんなそうだったかもしれない。
そして外国に続いて、七番目にユダの罪を示される。主の教えを守らず、偽りの神に惑わされたことを告げられる。
ここでイスラエルの人たちは終わったと思ったことだろうと思う。七は完全数で七はすべてを意味することが多い。だから七つの話で終わりと思った人も多かっただろう。
他山の石
ところがその罪を示す主の言葉はイスラエルに対しても語られていた。しかもそれは他のどこの国に対する言葉よりも長いものだった。
他の国の罪をを聞きながら、そうだそうだと思っていた、なんと悪いことをする奴らだ、と思っていた者は、自分に対する罪についても聞かされることになってしまう。
その内容は、正しい者を金で売り、貧しい者をごくわずかの借金のためにどれに売っている。貧しい者を抑圧し、弱い者や貧しい者に対しては公平な裁判もしていない。家の手伝いとして雇われた若い女性は、父と子の両方から虐待を受けている。裕福な者が質にとった衣を広げて神殿の中でピクニックをしている。そこでは損害賠償のための罰金として取った葡萄酒を飲んでいる。
外国に関しては戦争に関する罪のことを言われており、ユダは神の教えを守らなかったことを問われている。しかしイスラエルは具体的な社会的な事柄についての罪を示されている。特に強い立場の者が弱い立場の者に対して、その立場や地位を利用して虐待し差別することを問われている。
むさぼり
結局はそれは持っている者がなおいっそう持とうとすること、何が何でも持とうとすることに対する神の否ではないか。そしてそれは、聖書一貫して流れる教えである。十戒の、「 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」ということや、イザヤ書10:1-2「 災いだ、偽りの判決を下す者/労苦を負わせる宣告文を記す者は。彼らは弱い者の訴えを退け/わたしの民の貧しい者から権利を奪い/やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。」など。
そしてマタイ25章では、最も小さいものの一人にしたのは私にしたのだ、とイエスさまが言うのだ。
神の命令は、弱い者や小さいもののことを大事にしなさいということだ。強い立場や強い力によって不正をするな、どんな者に対しても同じように大切にしなさいということだ。そんな風に隣人を大事にすることが神を大事にすることと同じ事だというのだ。隣人を大事にしないということは神を大事にしないことでもある。いくら神のことを大事にしていると言っても、隣人を大事にしないならばそれは偽りだというのだ。神を信じる生き方とは、ただただ神だけを見て生きると言うことではなく、神を見つつ人を見るという生き方なのだ。イエスさまも一番大切な戒めは、神を愛することと自分を愛するように隣人を愛することである、と言われている。
当時イスラエルは周りの大国の力も弱く、政治的にも安定し経済的にも豊かな時代だったようだ。しかしその恩恵にあずかっていたのは一部の者たちだけで、国全体としては豊かになってもその豊かさは金持ちの者となり、貧しい者は相変わらず貧しく虐げられていたようだ。
とにかく自分が豊かになればそれでいい、自分が便利になればそれでいい、そんな風潮があったらしい。それは間違っている、と言う声を聞かなくなってしまう。自分に都合の悪い声は聞かなくなってしまう。法律も制度も自分の都合のいいように変えて、ついには神の戒めも自分の都合によって変えてしまおうとすることもあったのだろう。結局は自分の都合のいい神を礼拝することになっていったのかもしれない。そこでは決して自分を改めることをしない、自分のまちがいを認めることをしない、自分を見つめ直すことをしない、ただただ自分を正当化しようという思いがあるのではないか。自分が正しいかどうかということの判断の基準が自分の中にあるようなものだ。そうなると何でも自分の欲望の赴くままに行動するようになってしまう。周りが苦しもうがどうしようがとにかく自分がよければそれでいいんだ、という事になってしまう。そしてそうなってしまっていることの罪をアモスは告げたのだろう。
喜び
私たちもただ自分が豊かになること、ただ自分が便利になること、ただ自分がいい思いをすることを求めることがあるだろう。周りを犠牲にしていてもそのことに気づくこともない。逆に自分がないがしろにされたときはさも大変なことが起こったように騒ぐことがあるのではないか。
人と人とのつながりの大切さを私たちも見つめ直す必要があるのかもしれな。自分が何をもつか、どれほど多くのものを持つか、そういうことにばかり関心が向きすぎているのかもしれないと思う。教会でも、自分がどれほど恵まれたか、自分がどれほどいい思いをできたかということにばかり気が向いていると周りの人のことなど目に入らなくなるだろう。教会に来て自分がどれほどのものを得られたか得られなかったかということばかり気にしていると、教会の中には邪魔者がいっぱいいるに違いない。子どもはうるさくするし、色んな仕事はやらされるし、いろいろと面倒なことがいっぱいあるだろう。ただ礼拝に来て話を聞いて帰った方がいい、という結論になるに違いない。周りの人おの世話なんかしたくないということになるに違いない。
でも私たちの神は、周りの者は見ないでただただ自分だけを見つめろ、とは言わない。神を見るように隣人を見ろという。神を愛し隣人を愛せという。神を見ることと隣人をみることは切り離せないことのようなのだ。神を大事にすることと隣人を大事にすることとは切り離せないことのようだ。そんな隣人とのつながりを大事にするように、神とのつながりを大事にすると同じく隣人とのつながりを大事にするようにということだろう。自分が何を得たか、何を持っているかということよりも、周りとどう繋がっているか、そっちの方が大事な事ではないかと思う。持つ喜びよりもつながりによる喜びの方が断然大きいと思う。そういうつながりを大事にする生き方をしなさいと神は言っているのだと思う。そこに喜びがあるのだと思う。