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礼拝メッセージより
説教題:「償いの主」 2000年1月30日 聖書:ヨエル書2章23節-3章5節
打撃
人生にはいろんな打撃を被ることがある。いろんな苦しみにあうことがある。
なぜ苦しみにあわねばならないのか、その原因を知ることは難しい。自分に原因があることもあり、そうでないこともある。自分が悪いときはもう仕方がないとあきらめるしかないような気がする。それは当然の仕打ちだと言われればどうしようもないと思う。
ヨエルの時代、民はいなごによって大きな被害を受けた。食べるものがないということはどんな大変なことなのかあまり想像もできない。戦後は食料もなくって大変だったと聞く。そんな状況がこの時あったのだろうか。しかもその上干ばつが続き、作物ができる望みもたたれたような状況だった。
どうしてそんなことになったのか、それはイスラエルの人々が神を無視していたためだったのだろうか。そうかもしれない、でもよく分からない。しかしこの苦しみの中でヨエルは民に向かって、今こそ神に帰れ、と告げた。苦しみの中で自暴自棄になるのではなく、ただ神に文句を言うのではなく、今こそ神に帰れという。ということはかなり神から離れていたということだろう。形だけは儀式を守っていたかもしれないが、心はすっかり神から離れていたということだろう。
敵か味方か
イスラエルの人々はいけにえをささげるという儀式を守ることで神との関係を持っていた。でも次第にいけにえをささげるという行為を行うこと自体が問題になってきて、やがていけにえをささげないことが悪いこととなり、次第にささげないことによって何か都合の悪いことが起こるかもしれないからささげておこう、心はどうあれ、形だけでもささげておかねば、となっていったのではないか。
それをしておかなければ何か悪いことをされる、というのであれば、それは神がほとんど敵だということになる。神は自分たちの敵であって、放っておくと何をしでかすか分からない、だからいわれたようにいけにえもささげておかねば、それも何もかもいわれたとおりにしておかねばということになりそうだ。敵の機嫌を損ねては大変なことになるからだ。日本の神もそんなところがあるように思う。家を建てるときには、その土地の神が悪さをしないように鎮めておくために地鎮祭をするらしい。あたかも神は自分たちの敵というイメージなのではないか。
聖書の神もそんな神なのだろうか。基本的に敵なのだろうか。そうではないと思う。いけにえを献げよ、といったことも、いろいろな律法も、それは神と人間との繋がりを保つためのものなんだろうと思う。敵ならばなるべく関係を持たないように、関わらないように鎮めておく。しかし味方ならばなるべく関係を持つようにする。聖書の神、主は敵である神ではなく、味方である神だと思う。なるべく遠くにいて欲しい神ではなく、なるべく近くにいて欲しい神だ。
だから主は、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ、、、衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と言われているのだと思う。私はおまえ達の味方だ、だからもっと近づいてきなさいと言われているのではないか。
18「そのとき、主はご自分の国を強く愛しその民を深く憐れまれた。」主は民のことを愛し、憐れむそんな神だというのだ。そして雨を降らし、豊かな実りを約束する。
必要な物
いなごと干ばつによって大きなダメージを受けていたイスラエル。そこに神は雨を降らすという。なくてはならない雨を神は用意するという。
人にとって必要な物、それを神は必ず与えると約束する。それがなくては生きていけない、そんな大事な物を神は与えると約束する。
かつての苦しみを償うという。かつての苦しみを帳消しにするほどの、覆い尽くすほどのものを与えるという。
何もない
すっかり何も無くなってしまったとき、それは今で言えば教会の人数も減り、お金もなく、力もない時ということかもしれない。そこで私たちは何をすればいいのか。
イスラエルの人々は、食べ物さえも無くしたときに、主に帰れという声を聞いた。苦しみの中で神に帰ることを聞いた。そして神に憐れみを乞うた。そこで、神が自分たちを愛し憐れまれていることを知った。
私たちも、何よりもそんな神との関係を持つこと、神との関係の中に生きることを大事にしないといけないのではないか。「今こそ、わたしに立ち帰れ」という言葉は私たちにも語りかけられているのではないか。心を引き裂いて、心を割って神のもとへ帰れと言われているのだろう。
ぬかりがあってはなにをされるか分からないというようなおそれを持ってではなく、鎧もなにもかも脱いで、心から、神に帰れ、と言うことだろうと思う。神は私たちにどんな落ち度があるかを見張っているような、そんな敵のような神ではない。ぼろぼろに引き裂かれた心をも受け止めてくれるような味方なのだ。一番の味方なのだ。だからそこに帰れと言う。
すべて
ヨエルは、そんな神のもとへ帰って民に神の言葉を告げる。その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ、と。すべての者だ。ある特別な人だけではない。
そして使徒言行録2章にあるように、ペンテコステの日に起こった出来事は、まさにここに記されていることが起こったのだ、とペテロは説教している。
その同じ神の霊は私たちにも注いでくださるのではないか、或いはもう注がれているのではないか。すべての人にわが霊を注ぐ、と言うのだから。そしてそこから私たちは苦しみに立ち向かう力を得られる。
すべてを知っておられ、すべてを支配しておられるこの神が私たちを愛し憐れんで下さっているのだ。私たちの味方となって下さっているのだ。
幻想
私たちは問題に直面するとその問題にばかり目を奪われる。教会も人数が少ないしお金もない。何かをする力も知恵もない。私たちはあるいは幻想に振り回されているのかもしれない。もっと人数が増えれば、もっとお金があれば、あんなことが出来る人がいれば、こんなことが出来る人が来れば、そうすればもっといい教会になるのではないかと思う。でもそんなお金もない、人もいない、だから何も出来ないと思う。そういうないこと、ないもの、にばかり目を奪われてしまうということがある。無いものばかりを見て、あるもののことを忘れてしまうことがある。でもそんな幻想ばかりを見ていては何も始まらない。
私はピアノが弾けない、と思う時、弾けない弾けないと嘆くだけではなにも起こらない。今はうまく弾けないが、少しずつ練習することはできるわけで、その出来ることを見ないで、出来ないことばかり見ていても何もできないままに終わってしまう。
気づき
確かに今は何も出来ないような無力な数少ない私たちだ。しかし私たちも神は憐れんで下さっている、愛して下さっている。
神が私たちにどんな雨を降らせてくださるのか、どんな恵みを与えられるのかは分からない。しかし神が私たちの味方でいてくださっているのだから、私たちは自分の出来ることをやっていこう。ないものではなく、今与えられているものを大事にしていこう。
そこにある大事なものに気づくかどうか、それが問題だ。神によってここに集められていることはとても大事なことであり、そして今私たちの隣にいる人はとても大事な人であるのではないか、それに気づくことが実はとても大事なことなのではないか。そのことに気づくかどうか、実はそれが根本的な問題なのかもしれないと思う。こういうすごい人が教会に来てくれればいいのになんてことを考える。もっともっといっぱい人が来ればいいのにと思う。でも今隣にいるひとり人のことを大事にできなければ、そのことを喜べなければ、たとえ何十人何百人の人たちがこの教会に集まったとしても喜べないだろうと思う。
今ある大事なことに気づいていきたいと思う。お互いの大事さに気づいていこう。きっと誰もが神の霊を注がれているのだから。
そして何よりも神の愛、憐れみに気づくかどうか、それが問題だ。神が愛し憐れんでいるという言葉を真剣に聞いているかどうか、それが問題だ。