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礼拝メッセージより
説教題:「悔い改め」 2000年1月23日 聖書:ヨエル書2章12-19節
苦言
誰も自分のいやなことは聞きたくない。そうだそうだという話は言い話だと思って聞く。
昨日の朝、ある作家がテレビに出ていた。そこでその人は、人間には湿り気が必要だ、じめじめしたものも必要だ、というようなことを言っていた。戦後の日本はかつての家とか家族とかいうじめじめした関係の反動からか、そういうものを嫌ってとにかくからっとさせようとしてきた。笑いとかジョークとかは心をからっとさせることができる。しかしずっとそればかりでは乾ききってしまう。それはドライヤーをずっとあてたままのような状態で、もうからからになってしまっている。じめじめしたことに対しては、暗いとかまじめだと言って嫌ってきたがそれも必要だ、というようなことを言っていた。
そんな話を聞くとそうだそうだと思う。よく僕も暗いとか言われる。いつも明るく、何も悩まないで生きていくことを求めているような所があると思う。そんな中で、おまえは暗いとか言われると困ってしまう。いつも明るくできるような性格ならいいが、そうでない者に向かって暗いなんていわれても困ってしまう。だから暗くてもいいじゃないか、暗いことも必要だ、大事だと言われるとほっとする。
そんなこともあって昨日のテレビはそうだそうだと思うことが多くて、言い話だったと思いつつ見ていた。でも言い話だと思ったのはただ自分の考えに近いことを言っていただけかもしれないな、とも思っていた。あれがもし、そんなことでは駄目だ、こうしないといけないと言われていたら、おかしな話だと思ってしまうに違いない。あるいはすぐにチャンネルを変えるかもしれない。
自分が間違っていても、なかなかその言葉を聞くことはできない。おまえは間違っていると言葉を聞いて、すぐにそうだろうかと自分のことを吟味出来る人はきっと偉大な人じゃないかと思う。そんなことはないとか、おまえの方こそ間違っている、と思う。
実際に自分のことを真剣に見つめるのは、すっかり状況が悪くなってからかもしれないと思う。そうなって初めて、或いは自分が間違っていたかもしれないと思う。
イスラエルはイナゴの襲来と、それに続く飢饉に直面して食料がなくなるという危機を迎えていた。民はそうなったことで自分たちのことを真剣に反省するようになったのかもしれない。どうすればいいのかを初めて真剣に考えるようになったのかも。その時どうすればいいのかを語ったのが今日の箇所。
悔い改め
イスラエルの人々は、イナゴの襲来を神の罰と考えた。これは自分たちが神のことをなおざりにしていた結果起こったことだと考えた。そして神との関係をそのことを通して見直すことになった。そして反省すべきことに気がついたのだろう。そこで、そんな民にヨエルは何をすべきかを告げる。主に帰れ、ということだ。悔い改めて主に帰れという。具体的には断食と祈りをするようにという。断食と祈りとは何もその時初めて行うことではない。習慣的に行ってきたことだ。悔い改めの時、主のもとに帰る時に昔から行ってきたことだ。
自分の力だけでどうにかしようとしてきた、自分の力だけで自分の知恵だけでどうにかなると思ってきた、そんな生き方をやめて、神の手の中を生きていることを知るということだろう。なにもかも自分たちの思い通りになるという考えを捨てるということだろう。そして最終的には神に任せるということだ。
心を引き裂く
そしてそこで、衣ではなく、心を引き裂けといわれる。
当時は衣服を裂くことで自分の感情を現していたらしい。それほどに悔い改めているんだという現れでもあったらしい。裂かずにはいられないほどの大きな嘆きや失望もある。しかし逆に言えばただ単にポーズを取っているだけということもある。それらしい格好をしておけばみんな納得させられるということもある。見せかけだけの、心のない所で衣を引き裂くこともある。
しかしここでは、衣ではなく、心を引き裂けと言われる。
心を引き裂くと言うことは誰からも見えない。人からは見えないということは自分自身、自分だけの問題だと言うことだ。そんな誰からも見えないことこそが大事なのだろう。
なぜ
神は「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。」という。自分のことを放っておくような、心ない儀式を守るような、形だけのつきあいをするような、そんな民に対しても神は憐れむ深く忍耐強く、慈しみに富み、下した災いを悔いる、というのだ。神はそう言う方だ、だからこそこの神のもとに、主に立ち帰れ、という。
無力
私たちは何もかも行き詰まってしまって何をどうすればいいのか分からないときもある。もう何をする力も残っていないときもある。
特に自分の失敗によって、自分の無能さによって事態が悪くなったようなときにはなおさらだ。自分のだらしなさがほとほといやになることがある。そんな無力さにさいなまれるときにも神はそこで待っておられるのだろう。私のもとに帰れと。
聖書を読む気力も、祈る気力もないときもある。しかしそんな時でも神はすぐそばにいて私たちを見つめておられるに違いない。私はここにいる、私の方を見なさい、あなたはひとりではない、と言っておられるのではないか。私はおまえのことを愛している、そのことを思い出しなさい、と言われているのではないか。
私たちはただ神を仰ぎ見ることしかできないかもしれない。しかしそこに神はおられるのだ。
苦しみ
苦しみにあうことは大変なことだ。そんなものない方がいい。いつも明るく笑って暮らせた方がいい、と思う。しかしその苦しみによって大事な物を見いだすなら、神を見いだすなら、それはただの苦しいだけの苦しみではなくなる。苦しみ自体がいいものだとは思わないが、苦しみから何を得るか、それが大事なのかもしれない。
自分の間違いを知らされることも苦しいことだ。心を引き裂くなんてことはとても痛く辛いことだ。今までやってきたことが間違っていた、なんてことは思いたくもない。自分の歩んできた道を正しかったと言って欲しい。自分は正しいことをしていると認めて欲しい。
そんな風に自分が正しいか正しくないかということを私たちはとても気にする。確かに正しさを持っている方がいいのかもしれないが、人間はどうやら根本的に間違いをはらんでいるらしい。いつも正しくあることはできないらしい。当然間違うこともある。間違っていたら間違っていたと認めることができればいいが、それもまた難しい。正しくあらねばならない、という気持ちが強い程、私は正しいんだと言う思いが強い程、自分の間違いを認めず、間違ったと思ってもそれを押し通すなんてことにもなりかねない。
そんな風に、自分が正しいかどうかよりも、むしろ周りとの関係を大事にすることが必要なのではないか。神との関係、隣人との関係を大事にすることが必要なのではないか。
正しさということも実はそういう関係の中で問われてくることがらなのかもしれないと思う。
まず何よりも私たちは神との正しい関係を持つことが大事なのだと思う。神との関係を持つように、神を神として、自分を人間として生きるようにということ、そこが基本であり、そこからすべてがはじめるのだろう。そしてこの神は愛し、慈しむ神なのだ。だからこの神に帰れ、とヨエルは告げている。