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礼拝メッセージより
説教題:「立ち帰れ」 2000年1月16日 聖書:ホセア書14章2-10節
罪
轢き逃げ犯人の苦悩とはいかばかりか。ずっと逃げ通すことの大変さはどれほどだろうか。身を潜めて、自分の素性を明かさず、明かせず、素性がばれることを恐れつつ生活するというのはどんな気持ちなんだろうか。とても絶えられそうにもない。警察に捕まえてもらった方が却って安心できるのではないかと想像する。
自分の罪を背負って生き続けるということはとても大変なことだろうと思う。罪を隠して、ばれないように知られないようにしているのはとてもしんどい。あのことがいつばれるだろうか、と心配して過ごすとすると、きっと夜もゆっくり眠れないだろうと思う。
赦し
ある教会の牧師がこんなことを言っていた。そこの教会に戦争中に兵隊として戦った人がいた。その人は南の国で戦った。殺すか殺されるかという状況の中では仕方がなかったという面もあったのだろう。或いはまた上官の命令は天皇の命令であると言われていたことで逆らえなかったとい面もあったのだろう。そこでしたことをずっとひきずっていたそうだ。確か状況が悪くなり食料事情が悪くなった時、現地の人の肉まで食べていたことも入っていたように思う。その人はそのことをずっと心に秘めていた。そして若い牧師に、神はこのことも赦してくれるのだろうか、と聞いてきた。そして、あなたを赦すと言って欲しいと言ってきたそうだ。その牧師は自分にはそんなことを言う資格はないことは分かっていたが、神の代理としてなのだろうが、あなたを赦すと言ったそうだ。赦しの言葉を聞かないではいられない、そんな苦しみを持っていたのだろう。
自分の過去の罪をだれもが背負っていると思う。心に刺さったままの刺が誰にもあるのではないか。その刺がことあるごとに心を傷つける。もちろんいまさら取り返しも付かない、だからもうどうしようもない、しかしそれでも、どうしようもないと充分分かっていても、やはりその刺がちくちく痛む。その痛みを乗り越えて、或いはごまかして生きられればそれはそれでいいのかもしれないが、なかなかそうもいかない。
ホセア
ホセアはイスラエルに向かって、お前達は間違っていると告げる。神に背いていることを告げる。
いろんな苦しみに遭っている、国も滅んでしまいそうな状況になっている。なんとかして状況を打開しようと一所懸命に策を練っている。しかしその根本的な所が間違っていると言う。それは自分たちの神の命令を守らず、異国の神を礼拝していることだ、というのだ。
自分の間違いを認めるということはとても難しいことだと思う。今までしてきたことを間違いだとはなかなか認められない。たとえそれが根本的な原因だとしてもなかなかそれを認められない。悪いことだと思わない限りはそれを改めようとはしない。根本が間違っていたままでは、他のことをどうにかしようとしてもどうにもなおるものではない。
その根本が間違っているとホセアは民に告げる。つまり神との関係がおかしくなっている、神の命令を守ることをしていない、という。
赦し
案外人は、誰もが自分の罪を精算できずにもがいているのかもしれない。ひき逃げした人だけはなく、戦争で人を殺した人だけではなく、みんな自分自身後ろめたい思いを引きずって生きているのではないか。そしてそれを精算しないで、精算できないままで、その思いに苦しんでいるのではないか。刺がささったままの状態でいるような、そんな状況があるのではないか。
刺の刺さったまま、刺を抜かずにその痛みをなくそうと努力するようなところがある。ひき逃げをした人は、その場から逃げることでその痛みをなくそうとしている。しかしそれでは刺の痛みはなくなりはしない。
刺をぬくことで、初めて痛みを根本的になくすことが出来る。抜くときには多分痛い思いをしないといけないだろう。しかしそこで初めて治すことができるようになる。 赦す、おまえを赦す、という確かな言葉を聞くことで私たちは痛みを少しずつ癒されていく。そして赦すという言葉を聞くには、自分の間違いを罪を認める必要がある。自分が間違っていた、悪かったということを認める必要がある。
ホセアはイスラエルが間違っているということを告げる。神を忘れ、神の命令を聞かないことは間違いだ、バアルの神を礼拝することは間違いだ、という。頼るべきはまことの神、主であると告げる。その主に立ち帰れと。
祝福
力のある国に頼るのではなく、自分たちが作った像に頼るのではなく、主に頼れという。自分たちはまちがっていたことを認めて改めよ、と言う。間違いを認めるところから次の歩みが始まる。そしてそこには新しい世界がある。新しい世界が見えてくる。これまで見えなかったものが見えてくる。それは神との関係の中にあるものだ。
主は民を癒し、喜んで愛すると言う。ただ形ばかりの儀式を守っているだけでは見えなかった神との関係がそこで見えてくる。
自分の力に頼る、あるいは誰か力のあるものに頼ることでは見えなかった神との関係が見えてくる。神に赦され、いやされ、愛されているという関係が見えてくる。神の支えの中に生かされていること、自分の存在を肯定されていることを知る。
支え
赦されても、癒されても、愛されても、自分の周りの事柄は何も変わらないかもしれない。自分の期待するように周りの人間も状況も良くなるというわけではないだろう。実際は周りの人間がみんな自分の期待通りになることの方が怖いことかもしれないが。まわりは何も変わらないかもしれない、しかし赦されることで、癒されることで、愛されることで自分はしっかりする。しっかりと地に足をつけて生きることが出来るようになると思う。
ひき逃げの犯人も、その罪を認めて償うことで新たな人生を歩み力が出てくるのだと思う。戦争の時の罪を赦されることで、その後の人生を歩み力が出てくるのだと思う。
周りは何も変わらなくても、そこでしっかりと立っていられるならば、新たに生きる力が出てくるのではないか。大事なことは、問題があるかないか、ということよりも、問題に直面する力があるかどうか、だと思う。私たちは問題がなくなることを望む。何も問題が起きないことを望む。しかしそれだと、少しの問題が起きる度に動揺しなければいけなくなる。あるいはまたいつ問題が起きはしないかといつも心配していないといけなくなる。しかし問題が起こってもどうにか出来る、なんとかなる、と思えるならば、いつもびくびくしている必要はない。
地に足をつけているならば、その地面がしっかりしたところに立っているならば、そこでいざというときにジャンプすることができる。神はそのようにして私たちを下からも支えているのではないか。
問題に対処する力を与えられるとしたら、それに立ち向かう勇気を与えられたとしたら、そんなふうに自分自身を支えられているならば、周りの状況は何も変わらなくても周りの景色は随分と変わってくるのではないか。
神との愛の関係の中から、私たちは今日を生きる力を与えられるのだと思う。だからこそ神のもとへ立ち帰れ、と言われているのではないか。