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礼拝メッセージより
説教題:「主のもとに」 2000年1月9日 聖書:ホセア書6章1-9節
結婚式
ホテルの結婚式に行っていると時々面白いことがある。日本人は特にそうなのかもしれないが、式というものがあると格式ばるようだ。結婚式でも、椅子に座る順番をどうするかということをとても気にする。ホテルの用意している式次第にも座る順番が書いてあったりもするのだが。神道の結婚式ではしっかりと順番が決まっているようなことを聞く。そんあこともあるからなのか、みんなどこに座ればいいの自信なげである。前の方を空け過ぎていたために始まる寸前に急いで前に詰めて座りなおしたり、あなたの方が前に座らないといけない、とか言って移動したりすることがある。別にどうでもいいだけどなあ、まあいろいろと大変だなあ、とそれを見ながら思っている。決まった順番通りにしたい人、そうしないと気が済まない人が結構いるようだ。
結婚式だけではなく、そんなしきたりにやたらと固執して、なにがなんでもしきたり通りにしないといけないと思う人もいる。とにかく決まった形通りにしないと気が済まない人もいる。なんとしてもそうしたいからするんだ、というよりも、そうしなかったことでまずいことが起きてはいけないというおそれを持っているような気がする。誰かから何かを言われるのではないか、何か不都合が起こるのではないかというようなことを恐れて、つまり間違うことを恐れてなんとか間違わないようにしているような気がするのだが違うのだろうか。
でも結婚式にしても何にしても、決まった通りにすること、落ち度なく間違いなくすることに意味があるわけではないだろうと思う。結婚式では、そこで、誓いとか約束を表明することに意味があるのだと思う。入場の歩き方がおかしかったとかつまづいたとかいうことを気にしないといけないわけではないだろう。参列者も決まった順序通りに座ることが大事なのではなく、そこで二人の決意を聞き祝福することこそが大事なのではないか、座る順番なんてどうでもいいことではないか、と思うのだが、そんなことを思う方がおかしいのだろうか。
いけにえ
そんな形を気にする余りなのか、形を大事にし過ぎるためなのか、形を気にするために却って大事な者を見失うということがよくある。宗教的なもの、宗教的な儀式となると尚更ではないかと思う。
旧約時代には、イスラエルではいけにえを献げることで自分の罪を赦してもらっていた。いけにえを献げることで神と自分との関係を持っていた。動物を殺して焼くというようなことをしていた。しかしそれはただ動物の命を奪うということではなく、自分自身の罪の裁きを動物に代わって受けてもらうというようなことだったらしい。殺される動物は自分自身でもあったのだ。そのいけにえを献げることで神との正しい関係を持っていた。
ところがどうやら次第にその本来の意味が薄れてきたらしい。何のためにいけにえを献げるのか、ということよりも、どういう風にするか、いつだれがどうやってするか、そんな形の方が問題になってきたらしい。目に見える形の方が問題になりやすいということかもしれない。そうすうとだんだんと見えない意味は放っておかれて、見える形をいかに守っていくかということにばかり注目するようになる。そんな時、きっと物知り顔の人が現れて、ここはこうするもんだ、ここはこうしてはいけない、なんて言ったんじゃないか、なんて想像する。後の律法学者やファリサイ派なんかもそうだったんではないか。
そんな形ばかりを追求することからイスラエルの人たちは次第に神を見失っていったのではないかと思う。いけにえを献げることには熱心でも、そこでいけにえは見ていても、神を見ていなかったのではないか、いけにえを献げることで神との正しい関係を持つということを忘れてしまっていたのではないか。とにかくただいけにえを献げるというしきたりは熱心に守っても、神を見ることがなくなっていったのではないかとおもう。
ホセアはそんなイスラエルの国が存亡の危機に瀕しているこの時、そんな民に神に帰ろう、神を見よう、神を知ろうと告げる。
希望
イスラエルの民は、主のもとに帰ろう、主を知ろうと言う。全くその通りと思う。ところが、そのすぐ後に出てくる主の言葉は、おまえ達の愛は朝の霧、すぐ消え失せる露のようだと言う。一体どうしたことか。
イスラエルは長い間バアルを礼拝していた。主を礼拝しつつバアルを礼拝するようなことをしていたらしい。ホセア書ではそんなことを姦淫というような言い方で表している。
そのイスラエルが主のもとに帰ろう、主を知ろうと言いだした。やっと本来の姿に帰ったのかと思うような言葉に見えるがそうでもなかったということらしい。
どうしてなのか。後の主の言葉から推測すると、イスラエルの民は、バアルを礼拝することはやめたが、主にいけにえはささげるが、その形を守ることだけになってしまっていたということなのかもしれない。大丈夫だ、いけにえをささげているし、古くからのしきたりは守っている。だから神はきっと助けてくれるはずだ、と民は思っていたのかもしれない。これだけやったんだから神が助けてくれないはずはないと思っていたのだろうか。あるいはここまでやってるんだから助けろよ、というような気持ちだったのだろうか。
愛
ホセアは「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」という神の言葉を告げる。神が喜ぶのはいけにえではなく愛であるという。神に対する愛、神を知ること、それはまた隣人を愛し、隣人を知ることでもあると思う。律法の中心は、神を愛し、隣人を愛するということである、とイエスは語った。神を愛することと隣人を愛することとは切り離せないことのようだ。
礼拝
私たちの礼拝はどうなのか。
私たちもどんな風に礼拝するかということを気にしているのではないか。どんなプログラムで、どんな讃美歌を歌って、どんな服を来て、、、。そしてまた間違わないように、スムーズに進むようにということに多くの神経を使っているのではないか。礼拝の司会者が、あそこを間違ってしまった、というようなことを聞くが、本当はそんなことは全然大したことではない。礼拝を間違わないかどうかなんかよりも、そこに愛があるかどうか、また神を知っているか、知ろうとしているかどうか、それこそが大事なことだろうと思う。神の愛を感じているか、神との愛の関係を持っていることを確認出来ているか、そして隣人を愛する思いを持っているかどうか、それこそが大事なことなのだろう。
愛
愛、それは他者のあることだ。私たちは礼拝でも自分がうまくできたかどうか、間違わずに出来たかどうかを気にすることが多いのではないか。しかしそれはあくまでも自分に向かっている思いだ。他者との関係は何もない。そこには他者との関係、愛の関係は何もない。礼拝においても、神との関係がどうか、隣人との関係がどうか、それこそが問題なのだろうと思う。
教会の集会にどれくらい休まないで来たか、教会でどれくらい上品でいられたかどうか、信仰的なおしゃべりができたかどうか、粗相のないように奉仕できたかどうか、人から言われたことを落ち度なく出来たかどうか、誰からも文句を言われないようにできたかどうか、そして礼拝において自分が嬉しくなれたか、自分が恵まれたかそんなことを気にするところがある。確かにそれも大切かもしれない。しかしどれもこれも自分がどうであったかということばかりだ。自分の得点がどれくらいかということだ。教会でいかに静かに厳粛にするかというよりも、そこに愛があるかどうか、神を愛し隣人を愛する思いがあるかどうか、それこそが大事なのではないか。神は、静かに滞りなくささげられた礼拝、というようないけにえではなく、愛を喜ぶと言っているのではないか。私たちがどれほど熱心にまじめに何かをすることよりも、ただ神を知ることを神は求めているのではないか。神の愛を知り、神の愛の中に生かされていることを知る、そしてそのことを喜び、隣人を愛すること、それを神は求めているのだと思う。
ただ神の言葉を厳粛に聞くことが大事ならば、それが礼拝ならば何もわざわざ集まってくる必要はないのだと思う。ただ自分がどれほどかしこまってきくかということが大事ならば。しかし教会は集められたものなのだ。ひとりだけではなく、集められたものの集まりが教会だ。だから集められているということが大事なのだと思う。ここで一緒に礼拝を守ることが大事なのだと思う。ここに一緒にいること、神の名の下にここに集まっていることが大事なのだ。共に集められているものという、そんな関係を大事にするようにと言うのが神の言っている事だと思う。神との関係も大事であるが、それと同時に隣人との関係も同じく大事なのだ。一緒に集められていることを大事にし喜ぶこと、そのことを神は喜ぶと言っているのだと思う。
説教を聞くことが大事だからといって、礼拝にどんな人が来ていても、初めての人が来ていても知らん顔をしているとしたらどうなんだろうか。自分にとって説教を聞くことが大事ならば他の人にとっても大事なのだ。自分にとってみ言葉が大事なように誰にとっても大事なのだ。
マタイ9:12-13
12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイ12:7
もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
イエスもこの箇所を引用している。
自分に何が出来たかということも喜びである。しかしそれよりも他者との正しい関係、神との、また隣人との愛の関係を持つこと、そのほうがよっぽど大きな喜びなのだろうと思う。自分に何ができたか、自分がどれほど正しかったかというような、どれほど立派ないけにえをささげられたかということを問題にするよりも、むしろ、自分にどれほどの愛があるか、神と隣人との愛の関係をどれほど持っているか、それこそが問題だ。
姦淫を犯し続けるような者を愛し続ける愛を持って神は私たちを愛しておられるだ。キリストの命を引き替えに私たちを赦すような愛をもっているのだ。その愛の中に生きるように、ホセアは告げているのではないだろうか。