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礼拝メッセージより
説教題:「あわれみ」 2000年1月2日 聖書:ホセア書1章1節-2章3節
旧約と新約
旧約の神は裁きの神、新約の神は愛の神、というふうな言い方をすることがある。本当か。新約の時代になって神は急にやさしい愛の神に変身したのか。確かにそんな風に思えるような所もある。しかし聖書の中には、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」とも書いてある。だとすると神は変わらないもののはずだ。いったいどうなのか。
祈り会でずっと旧約聖書を読んでいる。実際神の命令に背いたために裁きにあったというような言葉も見受けられる。今まで読んだ所では、旧約とはおおざっぱに言うと、イスラエルの民が神の命令に背いたという歴史であるみたいだ。そしてそのためにいろんな苦境を経験しまことの神のもとへ帰ってくる、そうすると神は過去の背きを赦し民を祝福する。しかしやがてまた民は神に背く、やがてまた苦しみ神に帰る、そうするとまた神はそれを赦し祝福する、また、、、の繰り返しだ。何回も何回も同じ事の繰り返しのようだ。何回失敗しても懲りないイスラエルの民と、その度にそのイスラエルを赦し祝福する神の物語、それが旧約聖書のようだ。どうしてそんなに何回も赦すのか。そんな気がする。仏の顔も三度までと言うが。何度も何度も赦す、これは愛と憐れみの神だからではないかと思う。それは新約の神は愛の神、と言われる姿そのもののように見える。
そしてやはり旧約時代も新約時代も神は変わっていないような気がする。
ホセア
ホセアはイスラエルが南と北に分かれていた時代、その北のイスラエル王国の滅亡が近い時期の預言者。その時の王がヤロブアム。
彼は主から淫行の女をめとれと言われる。そして淫行による子らを受け入れよと言われる。
何も好きこのんでそんな人と結婚することもあるまい、と思うようなことをするようにと言われてしまう。さらに生まれたこどもの名前は、かつての血なまぐさいことの起こった土地であるイズレエルとか、憐れまれぬ者という意味のロ・ルハマ、わが民でない者と言う意味のロ・アンミと名付けるようにまで言われる。
神がイスラエルの民を見放した、見捨ててしまったということを自分のこどもの名前につけて告げ知らせよ、ということのようだ。
あわれみ
そんな裁きの言葉に続いて、ところが2章になると突然、イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは生ける神の子ら、と言われるようになるという。そしてそのイスラエルの人々に向かってわが民、憐れまれる者と言え、と言われる。
イスラエルの人々の実態は憐みようのない状態、神からも見捨てられるような状態だったのだろう。そしてそのことを神も告げたのだろう。おまえ達のことなどもう知らないということだったのだろうか。
神はイスラエルを選んだ。それは全世界に神のことを知らせるためであった、と旧約聖書には書かれている。しかし全世界に知らせるどころか、その初っぱなのイスラエル自体が神に逆らうことの繰り返しだった。
おまえ達のことはもう見捨てた、もう知らない、勝手にしろ、どうにでもなれ、と言いそうである。しかも何回も何回も赦しても同じ事の繰り返しなのだ。あきれ果ててものが言えない、と言いたくなるような状況だったのだろう。
しかし神はそれでもあきらめない。何度も何度も彼らを呼び戻す。それをみているこっちの方があきれるほどに神は何度も何度も呼び戻す。神はあきらめることがないらしい。自分の民を見捨てる事がないらしい。
私たちは、こんな自分はだめだ、こんな自分はどうしようもない、こんな自分を神は軽蔑している、見捨てていると思う。そうやっていつも自分は駄目だ駄目だと思う。駄目な自分だから何もできないと決めつけている。神もきっと自分のことをみてあきれ果てているに違いないと思っている。
しかし神はまるであきれていない。神は私たちが想像する以上に大きいらしい。神の憐れみも私たちの想像する以上に大きいらしい。
愛
愛するとは何もないものをも大事に思うことのようだ。神は私たちに何かがあることで私たちを大事にするのではない。私たちが何かできるから、何かを持っているから大事にしているのではない。何もない、むしろ神に背き、裏切り、知らん顔しているような者である。にも関わらす神は私たちを大事にしてくださっているのだ。空っぽの私たちを神は大事にしてくれている、大事なものとしてくれているのだ。神の愛とはそういう愛らしい。そんな大きな愛なのだ。お返しをしなければ見捨てられるとか、いい顔をしなければ嫌われるとか、そんな愛ではないらしい。
そんな私たちをも赦し受け入れてくれる、そんな大きな憐れみの中に私たちは生かされている。姦淫の女を自分の妻に迎え入れ包み込むような、そんな憐れみを持って神は私たちを迎え入れてくれている。
旧約聖書はそんな姦淫を犯し罪を犯し続ける民と、その民といつまでも関わり続ける神の歴史である。それはまさに私たちと神との関わりと同じようなものだ。神の憐れみの大きさをそこで知っていきたいと思う。