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礼拝メッセージより
棚にあげて
自分が何か失敗した時には、あーだこーだと色々と口実を探したり、何とか赦してもらう方法はないものかと思ったり、これくらいは大目に見てくれてもいいじゃないか、なんて思ってしまう。
ところが誰かが失敗したときには問答無用で相手を責め立ててしまう。自分のことは棚にあげて、相手がいかに駄目な人間か、なんていうような目で見てしまう。赦す必要がどこにあるのか、なんてことになってしまう。それが私たちの現状でもあるのではないか。
無限
ペトロが「主よ、兄弟がわたしに罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」とイエスに問いかけた。当時、ユダヤ教の教師であるラビは、神は3度まで赦してくださる、同じように3度までは赦せと教えていたそうだ。ペトロが7回までと言ったのは、イエスならば3回なんてみみっちいこといわないで7回位は赦せと言うだろうと思っていたんじゃないだろうか。あるいは7回も赦そうかと言う自分を褒めて貰えるかもという気持ちもあったのかもしれないなんて思う。
それに対してイエスは7の70倍赦しなさいと答えた。そんなに赦してられない、そんなに赦していいのか、そんなに赦してたらみんな勝手なことばかりするようになってしまうじゃないか、なんてことを思ってしまう。
そこでイエスは仲間を赦さない家来のたとえを話す。1万タラントンの借金を赦された家来が、百デナリオンの借金を赦さなかったという話しだ。
1タラントンとは6000デナリ。1デナリオンが一日の賃金だそうなので、たとえば1デナリオンを1万円だとすると、100デナリオンは100万円、1タラントンは6000万円となる。そうすると1万タラントンとは、6000億円とかいうお金になる。
イエスのたとえ話は、6千億円を赦してもらった者が、100万円を赦さなかったという話しなのだ。60万分の1を赦さなかったという話しのようだ。額が大きすぎて実感がわかないので、身近な額で比較すると、6000万円を赦してもらったのに100円を赦さなかったという話しなのだ。
あなたは無限に赦されている、のに自分が赦された60万分の1の罪を何回赦したらいいんでしょうかと言っている。7を70倍するほどにとイエスは言う。490回ということではなく、それは結局は無限に赦せということなのだろう。無限に大きな罪を赦されているのだ、だからあなたがたは無限に赦してやりなさいということなのかな。
私はあの人を赦してやった、と自慢げに思うこともあるが、60万回くらいまでは偉そうに言えるものではないということかもしれない。
しかも、この家来の王に対する返事は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」ということだった。6千億円を使い込んでたようなもので、どう考えても返せる見込みなどない。当てがあったのか。そんなのはきっとなかっただろう。こつこつ働いて返せるような額でもない。1デナリオンが一日の賃金なので、それを全部返済に充てるとして一日1デナリオンずつ返したとしても、元本を返すだけで16万4383年と半年かかるそうだ。それなのに返しますなんて言うのだ。できもしないのにできますと言ってしまう。うそでもなんでもついてその場を凌ぐしかない、まったくいい加減な自分勝手な家来だ。
この家来の姿はまさに私たちの姿そのものでもあるかのようだ。何も出来ないくせに偉そうなことだけは立派に言っている、そんな姿を神は憐れに思って赦してくれているのかもしれない。
神の赦しとはそういうものなんだと言っているのだろうと思う。神の期待に応えたからではなく、立派に生きているからではなく、反対に全く駄目でどうしようもない生き方しかしていない、偉そうなことは言うけれど実体は全く伴わない、しかしそんな私たちを神が赦してくれているということなんだろうと思う。
だからそうやって赦された者として、あなたたちも赦しなさいと言われているのだろう。あなたが赦せば、あなたも赦してやるというのではない。もう赦されているから赦しなさいというのだと思う。
赦し
話しは変わるけれど、赦すということは相手を解放してあげることでもあるけれど、自分を解放することでもあると思う。
あいつは絶対に赦さないと思い続けると、その人のことばかり考えて、ずっといやな思いを引きずっていくことになる。確かにとうてい赦せないと思うこともある。絶対に赦してなるものかと思うこともある。
自分の家族を殺された人が、その犯人に面会に行くというようなことが時々ある。家族を殺した犯人なんか赦せるわけがないと思う。家族が殺されたら、その犯人をきっと一生憎み続けるのではないかという気がする。それが当然だと思う。ところがその犯人に会いに行くという人が時々いる。そんな人の本を読んだことがある。
憎み続けることはとても大変なことだ。とてもエネルギーのいることだ。絶対に赦さないと思うことは、相手をその罪に縛り付けることでもあるが、逆にその憎しみに自分自身を縛り付けることでもあるらしい。相手を赦すことで自分も解放されていく、というようなことが書いてあった。
35節に「あなたがた一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの父の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」なんて書いてある。なんだか脅しのような言い方ではある。しかし実際、赦さない者は結局は自分も赦されない、解放されないというのは本当だろうと思う。
憐れみ
しかしただ赦すということは理屈に合わないことだ。何千億円の借金を帳消しにするなんてことは理屈に合わないことだ。家族を殺された犯人を赦すなんてことも理屈に合わないことだ。そんな理屈に合わないことをするのは、今日の聖書にもあるように相手を憐れに思うからこそだ。
私たちが赦されるのも本当は理屈に合わないことなのだろう。しかし神が私たちを憐れんでくれているからだ。憐れまれたから、あなたも憐れみなさいと言われているのだろう。あなたが憐れまれている、だからあなたも隣人を、そして自分自身を憐れみなさい、そう言われているのだと思う。
あなたがたは互いに憐れみなさい、それが神に憐れまれている者としてふさわしい生き方だ、そう言われているのではないか。
間違いもせず、抜かりなく、失敗もしないで、誰からも責められないように生きることが正しいことのように思ってしまいがちだ。けれどそんな完全無欠な人間になれるわけでもない。
そんなことよりも、憐れみを持って赦し合って生きることこそが大事なことだ、と言われているんじゃないだろうか。何より神がそんなお前を憐れんでいてくれているんだから、お前も憐れみを持って生きなさい、イエスはそう言いたいんじゃないだろうか。