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礼拝メッセージより
畑
天の国のたとえが三つ並んでいる。
一つ目は畑に宝がカクされたのを見つけた人が畑を買うという話しだ。
どうして畑に宝を隠したりするのかと思う。パレスチナは交通の要衝だった。東は砂漠、西は地中海に挟まれている狭い地域で、南北の列強に何度となく支配されてきた。外国に支配されたり、社会状勢が不安定になったりすることも多かったようだ。
スタンドバイミーという映画を思い出した。子どもが貯金箱代わりのビンを家の床下に埋めておいて、後で掘り返すときの目安に地図を作っておいた。けれど部屋を掃除した母親がその地図を捨ててしまったために、床下を9ヶ月も掘り返しているなんて話しがあった。
今だと宝は銀行の貸金庫に預けたりするみたいだけれど、社会が不安定な次期にはパレスチナでは人々は財産を壺などにいれて畑に隠しておくということもしていたそうだ。
畑に隠した宝は、社会が安定したらそれを掘り返すつもりが、持ち主が死んでしまったりするとそのままになって、後々その畑から宝物が見つかるなんてことは実際にもあったらしい。
今日の話しでは宝を発見した人ががそのまま隠しておいて持ち物を全部売ってその畑を買うということだが、そうすると畑を耕していた人は畑の持ち主ではなく小作人ということになるのだろう。その宝は本来は畑の持ち主のものになりそうだけれど、黙っておいて畑を買ってしまえば自分のものになるという計算だ。ちょっと姑息な手段だと思うが、そのことはここでは問題にしていない。とにかく持ち物を全部売って畑を買うということだ。
真珠
次の譬えは、商人が良い真珠を探していて、高価な真珠を見つけるとこれまた持ち物をすっかり売り払ってそれを買うという話しだ。当時は真珠は養殖もしてなくて天然のものしかなかったそうで大変貴重だったそうだ。だから良い真珠を見つけた時には全財産を売り払って買うという話しだ。
天の国
たとえ話の内容自体は単純で分かりやすい。これは何の譬えかというと、天の国のたとえだ。
ちなみに、「天の国」は聖書ではマタイにしか出てこないようだ。マルコやルカでは神の国という言い方をしている。マタイでも神の国という言葉は出てくるが天の国という言い方が多いそうだ。
これはマタイの福音書がユダヤ人向けに書かれているからということらしい。旧約聖書の十戒には「神の名をみだりに唱えてはならない」と書かれていることから、ユダヤ人たちは神の名を言わないようにしていて、そんなユダヤ人たちの慣習に配慮してマタイは神の国を天の国という言い方に変えたらしい。だからここでいう天の国というのは死んだ後に行くところのことではなくて、神の国、つまり神の支配というような意味合いのようだ。
天の国は私たちが全財産を賭けて手に入れるようなすばらしい宝だ、それくらい価値のあるものだ、だから天の国を手に入れるためには自分のすべてをなげうたないといけない、というか全てをなげうって初めて手に入れることが出来る、だからいろんなものを犠牲にしないことには手に入れることができないのだ、と言っているのだろうとずっと思っていた。ネットを見てもそういう風な説教もある。
でもこの譬えの人たちはいやいや手に入れているわけではないようだ。無理して覚悟を決めてそうしている風でもない。そうではなく、それが欲しくて欲しくて後先顧みず買ってしまったという感じがする。そうすると、天の国を手に入れるためにはいろんなものを犠牲にしなさいとか、覚悟を決めて全財産を献金しなさいとかいうことを言っているのではないと思う。
聖書をよく見ると、天の国は畑に隠されている宝のようなもの、とは言っていない。天の国は畑の中の宝にたとえられるというのであれば、天の国は全財産をなげうって手に入れるものという話しになると思う。
しかしこのたとは、畑の宝が天の国だとは言っていない。全財産をはたいて畑を買うことが天の国にたとえられると言っている。
同じように真珠が天の国にたとえられる、とは言っていない。全財産をはたいて真珠を買うことが天の国にたとえられている。
つまり自分の欲しいものをなんとしても手に入れる、自分のものにする、それが天の国だと言っているようだ。
網と魚
さらにもう一つのたとえが続く。ここでは天の国は、網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集めることにたとえられている。その後に良いものと悪いものをより分けるという話しになっている。
ここで言いたいのは、良い者と悪い者を分けるのは天使であって人間ではない、分けるのは終末であって今ではない、今集まってる自分達は良い者の集まりだなんて考えは思い上がりである、ということを言っているのではないか、という説明をしている人もいた。
でも畑と真珠の話しの流れから言うと、いろいろな魚を集めるという所で終わっていたら、三つの譬えが同じように並んでスマートだったのにと思う。本当のイエスの譬えはそこまでだったじゃないかという気もする。
マタイ13:24以下には毒麦のたとえがあって、その説明が13:36以下にある。そこでも世の終わりに天使が悪い者を燃え盛る炉の中に投げ込ませるという話しがある。しかし毒麦の話しはマタイの福音書の特徴的な話しで、他の福音書にはないようだ。良い者と悪い者を分けるという話しは、誰かが何かしらの意図を持って付け加えたんじゃないかと勘ぐっている。
わくわく
宝とか真珠が天の国ではなくて、宝のある畑を手に入れること、真珠を手に入れること、魚を手に入れること、それが天の国だとすれば、では手に入れるのは誰なんだろうか。
実はこの手に入れる主人公は神のことを言っているのではないかという気がしてきている。神が宝を見つけて全財産をはたいて手に入れる、手に入れて嬉しくてわくわくしている、それが天の国、神の国なんだということをいっているんじゃないだろうか。つまりその宝とは実は私たちのことなのではないかと思う。
つまり、神は私たちのことを宝なのだと言っている、高価な真珠だと言っているような気がする。神は私たちのことを、全財産をなげうってでも手に入れたい、そんな風に見ている、大事に思っている、そして手に入れると嬉しくて嬉しくわくわくしている、それが天の国、神の国である、そんな神の国がやってきた、イエスはそう言っているのではないだろうか。