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礼拝メッセージより
中風
百人隊長がイエスに、中風になって苦しんでいる僕を癒してくれるように頼みに来た。百人隊長ということは当時この地方を支配していたローマの兵隊で、ユダヤ人から見れば異邦人ということになる。
イエスは自分が行っていやしてあげようと言うが、百人隊長はそれには及ばない、ひとこと言ってくれるだけでいいと答えた。するとイエスはイスラエルの中でもこれほどの信仰を見たことがないと誉め、あなたが信じたとおりになるようにと言って、その時僕はいやされたという話しだ。
いやし
8章はいやしの話しが並んでいて、1-4節には重い皮膚病を患っている人をいやし、14-15節ではペトロのしゅうとめをいやし、16節では大勢の病人をいやしたという話しが載っている。
イエスは医者だったのかと思う程だけれど、それほど病人を癒す能力があったということなんだろうか。
イエスは重い皮膚病の人とペトロのしゅうとめに触れていやしたと書いてある。ユダヤ人は重い皮膚病の人に触れると穢れると考えていたそうだ。また男性が女性に触れるということもなかったそうだ。また今日の箇所では異邦人の兵隊をいやしている。
どれもユダヤ人が避けているような人たちに触れたり、声をかけていやしている。
そして17節でマタイは、そのまとめのように「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」というイザヤ書53:4の言葉を引用している。
イザヤ書53章は、バビロン捕囚から祖国へ帰る際にユダヤ人を率いて、神殿の再建に取り組んだたセシバザルだと考えられているようだ。セシバザルはダビデ家の家系であったことから、ユダヤ人たちはセシバザルにダビデ王国の復興を期待したけれど、そのためにペルシアから反逆の疑いをかけられ非業の死を遂げたそうだ。イザヤ書はセシバザルの犠牲の上に神殿が建てられたと考えたようだ。
イエスはユダヤ人たちが関りを持とうとしない人たちと関わってきた。重い皮膚病の人や女性に触れ、異邦人をいやした。罪人とされ社会から除け者のされ差別されている人たちに関わってきた。ユダヤ教の指導者たちの意向に反してそんな人たちと共に生きてきた。その結果が十字架だった。まさに非業の死だった。
しかしそんなイエスの生き様によって自分達も助けられ救われたとマタイは理解しているということなんだろうと思う。イエスは命をかけて、弱く虐げられている人たちの側に立ち、そんな人たちの味方であり続けてくれたと理解したということだろう。
癒し
しかし正直言って本当にこんなに簡単に癒やせたのかという気持ちもある。だったら今でもイエスにお願いしたら癒して欲しいとも思う。でも祈っても簡単に治らないことばかりでどうなってるんだろうかと思う。信仰が足りないとか祈りが足りないと言われたらぐうの音も出ないし、その通りですとしか言えないけれど。
イエスならきっといやしてくれるという希望を持つことで改善していくことは勿論あるだろうと思うけれど、祈っても祈っても治らない現実を前にすると、治してくれるという希望を持ち続けることも難しい。
今日の聖書ではイエスが病気をいとも簡単にすぐ治したように書いてあるけれど、すぐ治ったのかもしれないけれど実際どうだったんだろうかと思う。
ここでいやされたのは、当時のユダヤ教世界からは除け者にされていた人たちだった。というかユダヤ人から見たら部外者とされていた人たちだった。
正統なユダヤ人とは割礼を受けて律法を守っている人たちだったようだ。だから皮膚病で隔離されている人も、異邦人も、女性も、正統はユダヤ人ではなかった。イエスはそんな除け者にされ、差別されている人たちの所へ出掛けて行き手を触れるというような非常識なことをしている。病を癒すこともすごいことだけれど、重い皮膚病の人に触れる、女性の手に触れる、そのこと自体がすごいことだったようだ。異邦人のためにそこへ出掛けて行こうということもすごいことだったんじゃないかと思う。周りからは非常識と言われるような行為でもあったんだろうと思う。またいやされた当人たちにとってもそれは思いもよらぬことだったんだろうと思う。
どこにいる?
この福音書を読むユダヤ人たちはどう思うんだろうか。自分達が除け者にしているような人たち、見下しているような人たちばかりをいやしているように感じるんじゃないかなと思った。神は自分達の側にいると思っているようなユダヤ人たちにとっては面白くないというか、腹が立つような話しなんじゃないかなと思った。
そんなことを思いつつ、じゃあ今の教会はどうなんだろうかなんてことも考えた。毎週礼拝に来てちゃんと献金している、そんな自分達の側にイエスがいる、イエスはそんな自分達のそばにいるなんて思っているとしたら、案外違うところにいるのかもしれないと思った。
実はイエスは、私たちが見下している、差別している、見捨てている、そんな人たちと共にいるのかもしれないなんてことを思った。
病気になったり怪我をしたり、悩んだり、悲しんだり、嘆いたり、イエスはいつもそんな苦しむ人のそばにいるような気がする。イエスはいつも苦しみや悲しみに寄り添っているような気がする。そしてそんな人たちと共に生きていきなさいと言われているんじゃなんだろうか。
イエスがどこにいるのか、いつも捜していきたい、そしてイエスについていきたいと思う。