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礼拝メッセージより
敵を愛す
マタイの福音書は5章から7章までに山上の説教と言われるイエスの言葉が集められている。
5章21節あたりのところから小見出しを見ると、腹を立ててはならない、離縁してはならない、誓ってはならない、復讐してはならないと、なかなか難しいことが言われている。
そして今日のところでは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」なんてことが言われている。
43節で言われているように、「隣人を愛し、敵を憎め」と言われた方がしっくりする。「隣人を愛しなさい」というのは、旧約聖書のレビ記19:18に「復讐してはならない。民の人々に怨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」という言葉がある。しかし「敵を憎め」という教えは旧約聖書にはないそうだ。
それなのにどうして敵を憎めというように言われているのか。それは隣人が誰なのかということに関係しているのではないかと言っている人がいた。自分の家族や仲間という隣人を愛するように、しかしそれ以外は敵であるので憎めということになったのではないかということのようだった。
自分の隣人である自分の仲間さえ愛すれば聖書の教えは守っているという考えなのかなと思う。
しかしイエスは敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい、なんて言っている。どうしてそんなことを言うんだろうか。
それは、あなたがたが天の父の子となるためである、と言われている。そして天の父が誰に対しても太陽を昇らせ雨を降らせるように、誰に対しても愛を持って接しなさいと言っている。だから自分を愛するものを愛するなんてのも、兄弟だけに挨拶することもまるで自慢することではない、と言う。なんともきびしい。
敵は憎むものだ。憎むからこそ敵という気もする。敵とはだれのことなのか。敵の国、同じ国の中にも、同じ国民の中にも、同じ学校、会社の中にも、同じ教会の中にも、同じ家族の中にも敵となる者がいるのか。あるいはだれでも敵となる可能性があるのかもしれない。
愛する
ここで愛するとはただ好きになるということとは違うようだ。ここの愛するはアガペーと言われる言葉が使われているそうだ。これは通常神の愛の時に使う言葉。ただ好きであるということじゃなくて、たとえ自分がどんなことをされてもその人にとって一番いいことをしようとすることである。
そしてまた肉親を愛するという愛とも違うようである。肉親を愛する思いは自然に生まれる。愛さないではいられない。しかし敵を愛する愛は自然に心に芽生えては来ない。それは相手を大事に思うという気持ち、感情ではなく、大臣使用とする意志なんだと思う。愛そうとする決意。アガペーの愛とはそういう愛である。
そういう愛をもって人に接する、そしてその人のために祈る、敵でさえも祈る、迫害する者のためにも祈る、それが天の父の子となることだと言う。つまりそれこそが神に作られた人間にとってふさわしいことである、と言うのだ。
そんなこと言われてもできる訳がない、という一言で片付けてしまいそうである。いくらイエスの言葉だからと言ってもこれはできない注文だ、と思ってしまう。できない私はだめなのよ、と言って自分を責めるか、出来る訳ないと開き直るかしかないのか。
完全な者
48節には「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とある。
この完全と言う言葉は機能的なことに使う言葉だそうだ。旧約のいけにえとして献げる傷のない犠牲を指す言葉らしい。また成人した大人を指す言葉。また専門的な知識を持つようになった人を指す言葉なのだそうだ。
つまり何かの目的のためにふさわしい者を指す言葉であって、欠点が全くない者のことではないそうだ。
つまりここで完全な者とは、人間本来の目的に合っている人間ということになるようだ。神にかたどって創られた人間にとってふさわしい生き方をするものと言うことだ。
つまり私たちにとってふさわしい生き方は敵を愛し迫害する者のために祈る生き方だということだ。
もちろんそのための大前提は、神が私を愛し、私を憐れんでいる、私を赦している、ということだろう。私たちの神はそういう仕方で私たちに接しておられる。だから私たちもこの神と同じように生きる、それが私たちにとってふさわしい、完全な生き方なのだと言われているようだ。
そう言われてもやっぱりそんなこと言われても自分には無理な注文だと思ってしまう。
悪人にも?
ところで45節で、父なる神は悪人も善人にも同じように太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも同じように雨を降らせてくださる、と書かれているけれど、これを聞いてどう思うだろか。
どうして悪人にも私と同じにするのか、あんな奴らには悪いものを与えればいいのにおかしいじゃないかといつも思っていた。悪人にまでいいものを与えなくてもいいのに、なぜそんなことをするのか、悪人には相応のものを、罰を与えて欲しいと思っていた。
でもよく考えると、そう思う自分は善人の側にいると思った。自分は善人の側だと勝手に思い込んでいる。本当は自分が善人かどうかわからないのに。本当は悪人の側にいるかもしれないのに。
私たちは一体善人なのか、悪人なのか。ついつい自分を善人の側においてしまっていることが多いのではないかと思う。自分が悪人の側だとしたら、悪人にも善人と同じ恵みを与えられるとしたら、こんな勿体ないことはない。こんなありがたいことはない。
本当は自分は悪人なのではないかと思う。ろくに神に従わない、神の言葉にそむいてばかりの悪人なのだ。しかしそんな私に対しても、神は太陽を昇らせ雨を降らせてくれている、善人と同じように恵みを与えてくれているのだろう。
あなたは一体どこに立っているのか、善人の側か、悪人の側か、実はそこを私たちは問われているのかもしれない。聖書を読んでも何の喜びもない、できもしないようなことばかり命令されていると思うことが多い。今日のところなどまさにそうだ。でもそう思うのは、善人じゃない自分を勝手に善人の側においてしまっているからかもしれない。
ろくでないの私を赦し、神の子として下さっていることに感激して喜ぶ、そこから私たちの信仰が始まるのではないだろうか。だからあなたは神の言葉を聞いて神の子としてふさわしく生きなさい、敵を愛して生きなさいと言われているのではないだろうか。
敵である、悪人である私を神は愛してくれている、だから神がそうするようにあなたも敵を愛し迫害する者のために祈りなさい、それがあなたにふさわしい生き方だ、と言われいてるような気がする。
それでも敵を愛するなんて出来そうにないと思う。なかなか出来そうにないけれど、敵を愛せと言われるイエスの言葉をはねのけるのではなく、聞き続けていこうかなと思う。