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礼拝メッセージより
ついて来なさい
イエスが最初の弟子たちを招いた時の話しである。
ガリラヤ湖の畔で網を打っているシモンとアンデレに、わたしについて来なさい、と言ったところ、彼れはすぐに従い、ヤコブとヨハネが船の中で網の手入れをしている時に呼ぶと彼らもすぐに従った、ということだ。いきなりついてこいと言われてすぐに何もかも捨てて従ったのだろうか。
マルコの福音書もマタイと同じように書かれているけれど、ルカの福音書を見ると違っている。イエスはかつてシモンの家で、シモンのしゅうとめが高い熱を出していたのをいやしたことがあった(ルカ4:38)。その後一晩漁をして何も取れなかった朝にまた出会い、イエスにもう一度網を降ろしてみなさいと言われて大量になり、その後で「あなたは人間を取る漁師になる」と言われている。
またヨハネの福音書では、シモンとアンデレは洗礼者ヨハネの弟子だったが、ヨハネがイエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言ったのでイエスに従ったと書いてある。だからかな、ヨハネの福音書には人間をとる漁師になるという話しはないようだ。ついでに言うと、ヨハネの福音書ではその次に弟子となったのがフィリポとナタナエルだったとなっている。
イエスが「わたしについて来なさい」と言った声に応えてだったか、洗礼者ヨハネの「見よ神の小羊」という声に促されてだったのかよく分からないけれど、何れにしてもシモンとアンデレはすぐにいきなりイエスに従うようになったみたいだ。
彼らはそれ以前にイエスのことを知っていたんだろうか。この福音書だと彼らはイエスに初めて会った時に声をかけられたように見える。でもどこの誰だか知らない人間についてこいと言われてすぐについていくなんて事はないような気がする。それともいきなりついていきたくなるような魅力というか、何か特別なものがイエスにあったのだろうか。あるいは彼らは漁師の生活に不満を持っていて、そこから抜け出したいとか逃げ出したいという思いを持っていたのかもしれないなんて想像もする。
純粋?
僕は大学を1年留年しつつどうにか卒業して会社に入った。3ヶ月程してから勉強のためということで出向に出された。出向した会社には、すぐ上に大概機嫌が悪くすぐ怒鳴る上司がいた。変電所に置く送電線を守る装置を設計する部署にいたが、会社の組織もよく分からないし、仕事の仕方もよく分からないし、間違いや失敗だらけだった。そしてそんなことがある度にいつも大声で怒鳴られていた。
会社に行くのがいつも嫌だった。朝会社に行くのが苦痛だった。ごくたまにその上司が出張でいないことがあってその時だけは気楽だった。日曜日に礼拝に行くことはとてもいい気分転換になっていた。でも日曜日の夕方からまた憂鬱だった。時々休みつつ、それでもどうにか続けて会社には行っていた。
一年半ほどしたころだったか、教会に西南学院大学の神学生募集のポスターが貼ってあった。そこの牧師が、浅海君こんなん来てるよ、と言うので、じゃあ行きましょうか、とお互いい冗談を言い合ったことがある。その時は神学校に行くなんて気はさらさらなかった。ところがしばらくするといつも神学校のことが心の片隅にあるようになった。そこに行くようにと言われているような気がしてきた。でも仕事がいやだから、そこから逃げたいからそう思っているだけだろうから、しばらくしたらそんな思いもなくなるに違いないと思って結論を出すのを先延ばししていた。神学校に行くように言われているんじゃないかという思いは大きくなるばかりで、結局は仕事をやめて神学校に行くことにしたけれども、ただ嫌なことから逃げただけなんじゃないかという気持ちは今でも結構ある。
神学校に行ってからも、私は神さまのことを伝えたくて来ました、というような人もいたけれども、そういう人の話しを聞く度にすごいなと思って聞いていた。教会でもそんな立派な志を持つことが大切だというふうに言われることが多いように思うけれど、僕は後から無理矢理押されて仕方なく行ったといった感じだった。それも格好つけて言ってるだけで、ただ逃げてきたと言った方が正しいような気がする。
そんなこともあって、今日の聖書を見ても、4人の弟子たちは実は丁度漁師を辞めたかったんじゃないか、なんて思ったりもする。
純粋な心こそ大事だ、とよく言われる。邪念が入るということはよくない、と言われる。そんな風に言われてきたような気がする。何をするにしても純粋な心でしないと意味がないようなことを聞かされてきた。しかし本来人間の心がただ純粋だけということがあるのだろうか。多分ないだろうと思うようになった。何をするにしてもいろんな計算をしながらである。いわゆるいいことと言われていることをするにしても、これをすればみんなからよく思われるだろう、相手から感謝されるだろう、なんてことを考える。ただ純粋に相手のためだけを思って、なんてことにはなかなかならない。これは僕だけのことなのだろうか。相手のためということがあってもやっぱりそれだけにはなれない。
そんなことではいけないのではないか、と思った時期があった。ボランティア活動をしようというとき、誰かの助けになることをするのに、少しでも邪念が入ってはいけないのではないか、と思うようになったことがあった。そう考えはじめると何も出来なくなってしまった。しばらくしてから、邪念が入るのは仕方がないことだと考えはじめた。大事なのは、自分の助けようと思う心がどれほど純粋であるか、ということよりも、相手の助けになるかどうか、それこそが大事なのではないかと考えはじめた。邪念があってもしょうがない、むしろそれはなくせないのではないか、ならば邪念を持ちつつ、できるだけ相手の助けになれるならばいいのではないか、と思うようになった。そうすると手助けすることへの抵抗感がだいぶ減ってきた。だからといって、そんなに助けになるようなことをしょっちゅうしている訳ではないが。
教会でも、信仰において純粋であることがすばらしいことであるように言われているように思う。一点の曇りもない、ほんのかけらも疑いを持たない信仰こそがすばらしい信仰であり、疑いや迷いを持つことは不信仰なのだというようなことが言われことがある。本当に疑いや迷いがない信仰を持てるのならそれはそれでいいのかもしれないが、実際はそんなことは不可能なのではないかと思う。疑いを持つなどと言うのは不信仰なのだと言われると、無理にでも疑いを持たないように努力し、そう振る舞ってしまうということになりかねない。あるいは疑ってしまっている自分を責めてしまうということになりかねない。そして実際教会でもそんな人を見ることがある。自分は清められているというようなことを言う人がいるが、そんな人に限っていつも威張っていて、人を傷つけても気づかないというようなことがあるように思う。
不純
イエスはどういうことで弟子たちを選んだのだろう。当時の漁師はそんなに学があるわけでもなかったそうだ。後々の弟子たちの様子を見ると彼らが信仰深かったわけでもないようだ。立派な純粋な人間というわけでもなかったようだ。そしてイエスの十字架を前にしてみんなそこから逃げてしまった。
迷ったり嘆いたり愚痴を言ったり、そして本当に大変な時には逃げ出したりする、そんな人間をイエスは弟子として招いた。イエスに呼ばれて、それに応えて従った者、それがイエスの弟子だった。地位も名誉も経歴も、そして信心も信仰も弟子となるための基準にはなっていないようだ。ただイエスについていくもの、それがイエスの弟子だ。
彼らはイエスに従っていくなかで、イエスの言葉を聞き、イエスの行動を見ていくことで、イエスのことを少しずつ知っていったのだろう。
福音書にはイエスに声をかけられたときの弟子たちの気持ちとか詳しい状況とか何も書かれていない。もっと書いといてくれたらいいのにと思ったりもするけれど、案外そんなことは問題ではないということかもしれないという気がしてきた。弟子たちがどんな状況でどんな気持ちでいようとも構わないと言うことかもしれないという気がしてきた。
私についてきなさい、そして私と一緒に生きなさい、イエスは私たちにもそう言われているのだろう。
それに対してどんな思いを持っていようと関係ない。兎に角ついてきなさい、不純な思いも、愚痴も嘆きも、失敗もだらしなさも全部抱えてついてきなさい、イエスはそう言われているのではないだろうか。