【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
孤狼の血
ネットで孤狼の血を見た。前から、見ようと思えばいつでも見られる状態だったし、呉が舞台になっているということも聞いていて、気にはなっていたけれど、この手の映画は好きではないのでずっと見ないままだった。
この前ふと、少し見てみようかという気になって見てしまった。暴力団の抗争があって、自分の権力というか地位というか、それを守るために誰が味方で誰が敵か、それを見極めるためにいつも気を張っていて、裏切り者は次々と始末していくというような状況で、人間のどろどろした思いを感じてしんどかった。
命を大事にするのが当たり前のように思っているけれど、そうじゃないんだろうか。この映画ではそれとは真逆のようだ。
相変わらず世界中で戦争が起こっているけれど、権力者たちは人を殺すことに抵抗感はないんだろうかと思ってしまう。
ヘロデ王
今日の聖書にも人を殺すことに抵抗感を持ってないような人が登場する。
今日登場するヘロデ王は当時ユダヤを支配していた王だ。王と言っても当時はローマ帝国の支配下にあったので、ローマに認められないことには王でいらない状況だった。ヘロデはローマ皇帝などにうまく取り入って王の地位を守っていたようだ。
また自分の権力を守るために、アメとムチを使って民を懐柔するのもうまかったようだ。そして自分に刃向かう者たちや、刃向かうかもしれない者たち、そんな考えを持っているに違いないと思う者たちを次々に処刑するというような残虐な面も持ち合わせていたようだ。
彼は王座に着くとまもなく、ユダヤ人の議会であるサンヘドリンの議員たちを殺し、そのあと、300人の議会関係の役人を殺したそうだ。またヘロデは結局10人の妻と多くの子どもがいたそうだけれど、妻の一人であるマリアムネとその母アレキサンドラ、長男のアンティパテルとほかの二人の息子、アレキサンデルとアリソトブロスを殺害した。また自分が死ぬ瞬間に、エルサレムの著名な人たちを殺すように命令した。
そういう風にヘロデ王は自分にとって都合の悪くなりそうな人間を片っ端から殺していったようだ。
家族や親族の中にまで様々な権力争いがあって、各々が自分の立場を有利にするために、陰に日向に誹謗中傷やでまかせが飛び交っていたために、いろんなことに疑心暗鬼になってしまい、結局大勢の人達を殺してしまうことになったようだ。自分の権力がいつ脅かされるかしれないという恐怖に常に怯えて生きていたのかもしれない。
逃避行
マタイ2章を見ると、占星術の学者たちがエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と聞いてまわったようで、その声がヘロデの耳にも入ったようだ。学者たちは直接ヘロデ王のところへ行ったのかと思っていたけれどそうとは書いていない、とネットで他の説教を見ていて知った。
兎に角、ユダヤ人の王が生まれたと聞かされたらヘロデはそりゃびっくりするだろうと思う。ヘロデ王は不安を抱いたと書かれている。自分が王なのに、自分の知らない所で王が生まれたなんて聞いたら、ヘロデ王の性格からしても、心の中は不安と恐れが渦巻くようになったとしても不思議じゃないだろうなと思う。
そこでヘロデ王は王として生まれたという者をも殺害しようと計画する。祭司長や律法学者達に、メシアはどこに生まれるかと聞いて、それがベツレヘムだと分かると、それを占星術の学者達に教えて、誰かということが分かったら自分も拝みにいきたいから自分に教えてくれと頼む。また星が現れた時期についての情報も学者達から仕入れておいた。
ところが学者達はベツレヘムでイエスに会うけれども、夢で神のみ告げを受けてヘロデに会わないで帰っていったという。
またイエスの父とされたヨセフにも、主の天使が夢で現れて、ヘロデが狙っているのでエジプトへ逃げるようにと言われてエジプトへ逃げる。
学者たちにだまされたと知ったヘロデは、学者達から星が現れた時期を聞いていたことから、ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を全部殺させたが、イエスはエジプトへ逃げたので助かった、という話しだ。
成就
この箇所でマタイは例によって、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった、という言い方を繰り返している。
15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」というのは旧約聖書のホセア書11章1節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」という言葉の引用だ。ホセア書ではエジプトからイスラエルの民を呼び出してわが子としたと書かれていて、出エジプトのことを語っていてわが子とはイスラエルの民のことだが、マタイはわが子をイエスということにしている。
18節の「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことでなき、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」というのは旧約聖書のエレミヤ書31章15節「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む 息子たちはもういないのだから。」という言葉の引用だ。これは北イスラエル王国が滅ぼされた時、イスラエルの人達がアッシリアに強制移住させられた際にラマを通過して、その時のことを伝えているものだ。ラケルというのは創世記に出てくるヤコブの妻の一人で、彼女の産んだ子供達の子孫が北イスラエル王国の民となっていた。その民が移住させられることを息子たちはいないと嘆いているということだ。
もうひとつ23節には「彼はナザレの人と呼ばれる」というのは旧約聖書にはそのような言葉はないようで、どこから引用したのか不明だそうだ。ヘロデの息子アルケラオがユダヤ地方を支配していたのでヨセフはガリラヤ地方のナザレに住んだとあるけれど、ガリラヤ地方はヘロデの別の息子であるヘロデ・アンティパスが支配していたそうで、そうすると実際にはガリラヤだから安全とも言えなかったようだ。
マタイは預言者たちを通して言われていたことが実現するためであったと言うけれど、ちょっと強引だなという気がする。
モーセ
夢によるお告げでイエスと両親はエジプトへ行くことになり、夢によってヘロデの死を知らされイスラエルに帰ることになり、夢によってガリラヤのナザレに住むことになったと書かれている。
似たような話が旧約聖書に出てくる。ヤコブの息子であるヨセフが、自分が偉くなるというような夢を見ることで他の異母兄弟から嫌われて、結局エジプトへ連れて行かれてしまうことになる。しかしヨセフはエジプトで夢を解き明かすなどの能力を発揮してエジプト王のファラオの側近として出世する。後に飢饉が起こるけれども、ヨセフが家族を救うこととなる。
何世代か経った後、エジプトではその後ユダヤ人の人数が増え、ヨセフのことを知らないファラオは脅威に感じ、ユダヤ人の男の子を殺害するようにという命令を出したこともあったが、生まれたばかりのモーセは助けられて、後に成長したモーセはユダヤ人たちを率いてエジプトを脱出することになる。
そもそもユダヤ人がエジプトへ移住するきっかけとなった人物の名がヨセフ、そのヨセフの父の名がヤコブだった。イエスの父とされた人の名がヨセフ、マタイ1章の家系図によるとヨセフの父の名もヤコブ、これはただの偶然なんだろうかと思ってしまう。
マタイはモーセのことを意識しているというか、モーセになぞらえてモーセがユダヤ人たちを救ったように、イエスはユダヤ人だけではなく異邦人をも救う救い主であるということをここで告げているのだと思う。
またイエスが生まれるときから神の特別の使命を帯びていたこと、神の特別な守りがあって危機からも守られてきた、預言者が約束していた通りに生まれたということを通して、要するにイエスが約束されていた救い主であること、ユダヤ人だけではなく人類全てのキリストであるということを伝えようとしているということだろうと思う。
だからキリストであるこのイエスのことを知って欲しい、これから書くイエスの言葉を聞いて欲しい、という思いでその前提として福音書の最初にこの誕生物語を載せているのだと思う。
弱さの中に
歴史的にこのようなことがあったかどうかはわからないというか疑わしいように思うけれど、でもイエスが生まれた時の状況というか境遇はマタイが言うようなものだったのだろうと思う。
つまりイエスは神の子として、救い主として生まれたけれど、神聖な清らかな場所に生まれて来たわけではなく、権力を持つ王の家に生まれたのでもなかった。そして圧倒的な力を持って、周りの者たちを有無を言わせず従わせるようなこともしなかった。また高いところにいて、上からみんなを指図するようなこともしなかった。
力を持つ者たちが権力を争いあい、そのために苦しめられ迷惑を被る、そして命さえもを簡単に狙われる、そんな庶民の中に生まれてきた。
人間の憎悪と恐れと不安が渦巻くところに生まれた。そのために人を傷つけ、殺してしまうような、そんな人間のどろどろしたものがうごめくところに生まれた。
不安にさいなまれて人を傷つけてしまうような、そんな者たちの中にイエスは生まれてきた。権力を持つ者に振り回される、理不尽な力によって悲しい思いをさせられている、そんな弱い者たちの真ん中にイエスは生まれてきた。
それは力に翻弄される弱い者たちと共にいるため、そんな者たちに神の愛を伝えるために、そのような者たちを愛するため、そしてそんな者たちに希望を与え、生きる力を与えるため、そのためにイエスは弱さを持って、弱い者たちの真ん中に生まれてきたのだと思う。
そして今も弱い私たちと共にいてくれている。
インマヌエル(神我らとともにいます)。