【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
上を向いて歩こう
歌を歌うことは子どもの頃から好きだったけれど、歌詞の意味を真剣に考えるようになったのは結構最近になってからだ。
♪上を向いて歩こう♪って曲があるよね。
「上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す 春の日
一人ぽっちの夜・・・」
あまり意味を考えもせず歌っていたけれど、結構悲しい歌だったんだ。「上を向いて歩こう」という題名から、希望を持って前向きに生きていこうという歌かと思っていたけれど、そうじゃなくて一人ぽっちで泣いているけれど涙がこぼれないように、泣いてるのが分からないようにというか、涙をこぼしてしまうと余計に淋しいから、辛いことがいっぱいだけれど、上を向いて耐えていこうと自分を励ましている歌なのかなという気がしている。結構辛い歌なんだなと今頃になって思っている。
片隅
人生は上を向いて歩こうのように、辛いことがいっぱいあって、なかなか思うようにいかないなあと思う。なかなかというより全然と言った方がいいのかも。
昔テレビで有名私立小学校だったか小学生に将来何になりたいかと聞いたのを見たことがあるけれど、弁護士になりたいとか、医者になりたいとか、官僚になりたいとか言っていた。順調にいい成績を取っていい学校へいって、順調にいい仕事について、良い人と結婚して、という風に順風満帆に進むことを目指してその通りにいくことがいい人生だ、と何となく思っている。そして躓いて落ちこぼれるのは失敗の人生だというような気持ちがある。でも人生というのはそうそう思うようにいかない。躓いたり失敗したりすることがある。一度の躓きや失敗で落ちこぼれるとしたら、この世は落ちこぼれの集まりのような気がしている。
障がいを持って生まれてきた人、愛してくれない親のもとに生まれた人、貧しい家庭に生まれた人、周りから差別の目で見られている家庭に生まれた人などは、生まれながらに落ちこぼれの烙印を押されているような思いでいるのではないかと思う。どうしてこんな身体に生まれたのか、どうしてこんな家に生まれたのか、どうしてこんな親の元に生まれたのか、そんな風に思う人もいっぱいいると思う。自分の所為でもないのに背負わされた不条理を、実は大なり小なり誰しもが、なにかしらの形で抱えつつ生きているのではないかと思う。
飼い葉桶
今日の聖書はイエス誕生の様子が書かれている箇所だ。
イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれたとルカによる福音書もマタイによる福音書も書いている。権力者のことに関する資料は結構残っているそうで、それによるとヘロデ王は紀元前4年に死んだと思われるそうだ。ところが2節に出てくるキリニウスがシリア州の総督であったときの最初の住民登録というのは紀元後8年位の出来事だったそうで時代的に食い違うらしい。
そんなこともあって聖書学者の多くは実際にはイエスはナザレで生まれたと言っているそうだ。
恐らくイエス誕生の詳しい事情を知る人は誰もいなくて、ただイエスはナザレの人だと言われているということと、キリストはベツレヘムに生まれるはずだということが言い伝えられていたのだろうと思う。ベツレヘムで生まれたのになぜナザレの人だと言われているのかということを説明するため、福音書を書いたルカはヨセフとマリアが住民登録のために旅をしている最中にイエスが産まれたということにしたのではないかと思う。
ナザレからベツレヘムまでは120km位離れていると書いてあった。出産を間近に控えている女性が、しかも旅をするには歩くかロバに乗るかしか方法がない時代に120kmも遠方まで旅をするなんてことは考えにくい。
ベツレヘムで生まれるというのは、旧約聖書のミカ書5章1節に「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの士族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」という言葉があり、また救い主はかつてのダビデと同じように王となって強い国を再建する人物だと期待されていたことから、ダビデの生まれ故郷でもあるベツレヘムで生まれるはずだと言われていたそうだ。
ルカはそんな話しも踏まえつつ、イエスがベツレヘムで産まれたと書くことで、イエスは救い主だ、旧約聖書の時から預言されていたキリストだ、ということを伝えたいのだと思う。
羊飼い
そしてルカはイエス誕生の知らせを最初に伝えられたのは羊飼いたちだったと書いている。この頃ユダヤの地方では羊飼いはまっとうな仕事ではなく、落ちこぼれた人達と見られていたそうだ。羊飼いは人口調査の対象にもならず、税金を支払う能力もないと考えられ、一人前の人として認められていなかったそうだ。
ユダヤ教が社会の基盤となっていた時代だったけれど、羊飼いは各地を転々として羊を放牧するため、決まった時に神殿に行き献げ物をすることが出来ないとか、あるいは安息日などの律法を守れないということで、羊飼いたちは罪人、落ちこぼれと見なされていたようだ。周りからそういうふうに見られて、羊飼いたち自身も自分たちのことを社会になじめない落ちこぼれの人間と思っていたんだろうと思う。
ルカによる福音書によると、イエスの誕生を最初に知らされたのはそんな羊飼いたちであったというのだ。社会からのけ者にされている者たち、社会からつまはじきされている者たち、罪人と言われ落ちこぼれの代表であった羊飼いたちにキリストの誕生は真っ先に知らされたというわけだ。
要するに、イエスは王の子どものように、みんなから今か今かと注目された中で権力を持って生まれた訳ではないということだ。そうではなく私たちと同じようにただの庶民として、時の権力者の命令に否が応でも従わなければならない所に生まれた、それに逆らう術も力もない所に生まれたということを伝えているのだと思う。
面白いことに羊飼いたちはイエスに会ってもことさらに何かを求めることもなかった。しかし自分の人生に神が関わっておられること、自分のところにキリストが来てくれたこと、それが彼らにとっては喜びだったということなんだろうと思う。
イエスが成人してユダヤ教の会堂で教え始めた時に、地元の人から、この人は「マリアのむすこ」じゃないかと驚かれたと福音書に書かれている。ユダヤの地方では普通ならばこういう時は「ヨセフの息子」だという風に父親の名前を使うそうだ。その時に父親が亡くなっていたからかもしれないけれど、あえて母親の名前を出しているのは、あるいは父親はヨセフではないという噂が広まっていたのかもしれない。そんなことからイエスはまわりから蔑まれ差別されて生きてきていたのかもしれない。だからこそ蔑まれ差別される人達と共に生きたのかもしれないと思う。
もちろん真偽の程は分からない。けれどイエスは、キリストが生まれますよと期待されて生まれてきたわけでもないし、この子は救い主だ、キリストだとまわりからちやほやされて生きてきた訳ではないようだ。
福音書を見ると、イエスは罪人とされ除け者にされている、落ちこぼれてそこから這い上がる力もない、何やったってうまくいかない、どうせ自分は駄目なんだ、こんな自分は誰にも相手にされない、一人ぽっちで泣きながら生きるしかない、そんな思いを持っている人達にイエスは会いに行き共に生きてきたようだ。羊飼いはそんな人たちの象徴でもあるように思う。
ぽっちじゃない
いろんな苦しみや不条理を背負って生きている私たちだ。イエスも恐らく不条理を背負って生まれてきて、不条理を背負いつつ生きてきたのだと思う。
それはいろんな苦しみや不条理を抱えて生きている私たちを決して一人ぼっちにはしないという神の決意の現れなのではないかと思う。
これは僕の勝手な思い込みだけれど、少し前からこの羊飼いは実は福音書を書いたルカのことなんじゃないか、ルカが自分の思いを羊飼いに託して語っているじゃないかという気がしている。羊飼いがイエスに出会って喜んで帰っていった、ここでは神をあがめ賛美しながら帰って行ったと書いてあるけれど、実はそれはルカ自身がイエスに出会った気持ちなんじゃないのかなという気がしている。
羊飼いたちはイエスと出会って喜んだけれど、彼らはイエスに何も要求しなかったし、羊飼いの境遇も何も変わってはいない。突然みんなから大事にされた訳でもない。彼ら自身は何も変わっていない。何も変わっていない、けれども彼らは喜んでいる。
こんな詩がある。
大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。
より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、
より良きことができるようにと、病弱を与えられた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。
人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに、
むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた。
求めたものは何一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられていた。
私はあらゆる人の中で、
もっとも豊かに祝福されていたのだ。
(ニューヨーク市三十四番街にある物理療法リハビリテーション研究所の受付の壁にある南部連合の無名兵士の詩)
イエスと出会っても私たち自身は何も変わらないようだ。強くなるわけでもないし立派になるわけでもないし金持ちになるわけでもないようだ。一見何も変わらない、けれどこの詩にあるように、神は私たちの見方を変えてくれる、それまで見えない大切なものを見えるようにしてくれるのだと思う。
私たちはひとりぽっちで必死に上を向いて歩いていく必要はない。涙を流すこともある、けれでも私たちは決してひとりぽっちにはならない。小さく弱い者を招くイエスがここにいてくれているのだから。
「クリスマスのメッセージ、
それは、私たちは決してひとりぼっちではないということ。」
テイラー・コールドウェル