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礼拝メッセージより
預言者
「その子をイエスと名付けなさい」と言ったかと思うと「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言ったり。イエスなのかインマヌエルなのか、一体どういうことなんだろうといつも思う。
マタイの福音書には、主が預言者を通して言われていたことが実現した、というような言い回しが何回も出てくる。マタイは旧約聖書のことをよく知っているユダヤ人向けにこの福音書をまとめているようで、旧約聖書の言葉を度々引用している。
インマヌエル
23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは旧約聖書のイザヤ書7章14節にある言葉の引用だ。
イザヤがこの言葉を告げた時代、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に別れていた。当時は北の方にあるアッシリアという大きな強い国の脅威にさらされていた。アッシリアに近い北イスラエル王国と、その北にあるアラムという国は同盟を結んでアッシリアに対抗しようとしていた。そして南ユダ王国も一緒になって対抗しようと持ちかけてきたが南ユダや王国は同調しなかった。そうすると北イスラエルとアラムは南ユダに攻めて来た。当時の南ユダ王国のアハズ王はアッシリアに助けを求めようとした。イザヤはアハズ王に面会して、アッシリアではなく神に助けを求めるようにと進言したがアハズ王は神ではなくアッシリアに援軍を求めた。
イザヤの進言を断るアハズ王に与えられた言葉の一節が、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:14)というものだった。
その後アハズの子ヒゼキヤが次の王となり、ヒゼキヤ王はアッシリアとの関係を絶って、神殿から偶像を取り除いた。イザヤ書9章5節に「ひとりのみごりごがわたしたちのために産まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。」とあるが、これはイザヤがヒゼキヤ王の即位を喜ぶ言葉だと思われるそうだ。
つまりイザヤは、このヒゼキヤ王がインマヌエルと呼ばれる男の子であると告げていて、ヒゼキヤ王はイザヤの言葉に従い神に助けを求め、アッシリアはエルサレムを包囲したものの疫病が発生し撤退することになったらしく、ユダ王国の窮地を救うこととなった。
マタイはこのヒゼキヤ王になぞらえて、ヒゼキヤ王が国民を救ったように、イエスこそ私たちの救い主、インマヌエル神我らと共にと呼ばれる救い主だ、と告げているということだ。
おとめ
そのイザヤの言葉の中に「おとめが身ごもって」という言葉があるけれど、もともとのイザヤ書はヘブライ語で書かれていて、ヘブライ語のおとめという言葉は若い女性という意味はあるけれど、処女という意味はないそうだ。けれどマタイが福音書をまとめた当時はギリシャ語が公用語のようになっていたようで、ユダヤ地方を離れていたユダヤ人はギリシャ語しか分からない人が多かったので、旧約聖書もギリシャ語に訳したものを使っていたそうだ。そしてギリシャ語に訳すときに、このおとめという言葉を処女という意味を持つ言葉に訳してしまったので、処女降誕という話しになっていたようだ。
疑い
マタイの福音書によると、マリアはヨセフと婚約していたけれども聖霊によって身ごもったとなっている。
当時のユダヤの婚約は親が決めたことで、結婚も女性は10代前半で、男性は二十歳前くらいだったそうだ。
しかしヨセフはマリアが妊娠してしまったと知る。結婚するはずの相手が、自分の知らないところで妊娠してしまう。それ以上の裏切りはないというほどの衝撃だったのだろうと思う。
マリアは一体誰と、どうして、ヨセフはさまざまな思いに、疑惑に苦しめられたに違いない。
婚約の段階での離縁は、正式に結婚した後に比べれば比較的簡単だったそうだ。法廷に持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証明する二人の証人がいれば良かった。そこでヨセフはひそかに二人の証人の前で離縁状と手切れ金を与えて離縁しようとしたようだ。
恐れるな
しかし主の使いがヨセフに夢の中に現れ、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのです。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と告げたという。
そんなこと言われたって、しかも夢の中で言われたって、はいそうですか、なんてそう簡単には納得できないよなと思う。
寄り添う
実際にこんなことになったとしたら、そこからヨセフにとっていろいろな思いに揺れる人生が待っていただろうと思う。マリアと一緒に生きていこうという思いと、また逆にいろんな疑惑がまたよみがえってくるような時もあったんじゃないかと思う。あるいは何もかも面倒になって投げ出したくなったり、でもやっぱりマリアを支えていこうという思いになったり、そんな揺れる思いを抱えていくことになるだろうと思う。
私たちの人生にもいろんなことが降りかかってくる。嵐の中を歩く時もある、風も吹き雨も降る時もある。時には思いもよらない訳の分からないような出来事、不条理な出来事が降りかかってくることもある。自分ではとても背負いきれず投げ出したいような出来事も起こってくる。
しかしそんな私たちの下にキリストが生まれた、インマヌエルのキリストが生まれた、マタイは私たちにそのことを伝えている。神はいつも私たちと共にいる、私たちはいつも神に愛され大切にされ心配されている、私たちは決してひとりぼっちじゃない、決してひとりぼっちにならない、どんな時でも神は共にいる、マタイはそう私たちに告げているのだろうと思う。だから福音書の一番最後にでてくるイエスの言葉も、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)となっている。
実際にイエスがどのように生まれたのか、マリアがどのように妊娠したのかなんてことはよく分からない。処女なのに妊娠したのか、それとも違うのか、分からない。でもそんなことよりも、神はいつも私たちと共にいる、それこそがマタイが伝えたかったことなんだろうと思う。
神我らと共に、という時の「共に」というのは、いつも触れ合っているとか、いつも目に見えるところにいるとかいうことではなく、そういう物理的な距離が近いということよりも、神の言葉、神の熱い思いが私たちの心にあるといることだと思う。お前が大切だ、お前を愛している、お前が大好きだ、そんなイエスの思いが私たちのうちにある、イエスの言葉が私たちの心にある、それこそが神が共にいるということなんだと思う。
そばにいるよ
渡辺美里の「そばにいるよ」という歌の中に、『会えなくてもそばにいるよ』という歌詞がある。目の前にいなくてもそばにいる、目に見えなくてもそばにいる、その歌を聞く度にイエスはきっとそう言ってくれているんじゃないかと本来の歌詞とは関係ないけれど、この歌を聞くとよくそう思う。
いつもそばにいるよ、いつも寄り添っているよ、どこにいても、どれだけ揺れ動いていても、どんなに苦しい時も、悲しいときもいつもそばにいるよ、そのイエスが生まれた、そのイエスを、そのイエスの思いを心に迎えるのがクリスマスなのだと思う。