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礼拝メッセージより
消防牧師
ずっとずっと昔大学生の頃、ある集会で大きな教会の牧師の話しを聞いたことがある。どんな話しをしたのかはほとんど覚えてはいないけれど、その牧師が自分のことを消防牧師だと言っていたことは覚えている。
教会でみんなの気持ちが高揚するようになると、自分はそれに水をかけるようなことをいう消防牧師だと言っていたと思う。具体的に水をかけるのがどんなことに対してなのかということは記憶にないけれど、もしかしたらクリスマスで教会のみんながうきうきしているときに、この聖書の箇所は実際に起こったことではないなんてことを言ったのかなと想像している。
今年もクリスマスを迎えているけれど、ふと消防牧師の話しを思い出した。
誕生物語
幼稚園でもやっていたけれど、クリスマスの降誕劇にはマリアとヨセフと天使と3人の博士と羊飼いが順番に登場する。聖書にも劇のようにみんなが順番に登場するのかと思っていた。
けれど聖書の中にはイエス誕生に関する話しがマタイとルカの二つの福音書に書かれていて、ほとんど違うことが書かれていて、しかも随分矛盾しているということに気が付いたのはだいぶ後になってからだった。
聖書は聖なる書物で、なんとなくそのまま受け入れるもんだというような感じで読んでいて、疑問を挟むこともなく、本当なんだろうかと薄々思いながらも、そんなものはさらりと読み飛ばしていた。聖書に書いているだから信じないといけない、それが信仰だというような気持ちも少しあったかな。
でも素直にというか正直な気持ちで聖書を読んでいいんじゃないか、疑問を挟んでもいいんじゃないか、信じられないと思ってもいいんじゃないかと思うようになってきた。
今日の箇所には処女降誕と言われるようなことが書かれているけれど、正直な気持ちとしてはそんなことないだろうと思うけれど、そんなこと教会で言っていいのかという気持ちも少しある。少しずつ減っているけれど。
片隅に
神学校の先生がどこかに書いてあったことを思い出した。
その先生はアメリカだったと思うけれど、留学していた時にそこの教会でバプテスマを受けた。そこの教会は聖書は間違いのない神の言葉だというふうに教えられていたそうだ。その後日本に帰って来て日本の教会に通うようになった。ある時その教会の運動会だったか修養会だったかで、ゲームをすることになって2つのグループに分かれて競争することになった。
そのグループを分ける時にそこの牧師が、処女降誕を信じる人はこちら側、信じない人はあちら側と言って分けたというのだ。その神学校の先生は、もちろんまだ神学校週間になる前だけれど、処女降誕は聖書が書いてあるから信じないといけないものだと思っていたので牧師がそんなことを言ったのでびっくりしたというようなことを書いてあった。
僕も最初は聖書はそのまま信じないといけないと思っていた。有り得ないことが書いてあっても聖書だから信じる、それが信仰なんだと思っていた。けれどだんだんと変わってきた。聖書をどう読むかということになってくると思うけれど、聖書も結局は人間が書いた物であって、書いた人の意図が当然反映している。物語がそのまま本当に起こったことととして信じるというよりも、その物語を通して伝えたいものがあって、その伝えたいものを聞いていくことが大切なことなんだろうと思う。
イエスは処女であるマリアから生まれてきたように書かれている。しかしそれ以前からも偉大な人物と言われるいろんな人が、アレクサンドル大王を始め何人もいるそうだ。父親がなしに母親からだけ生まれていたと言われていたそうだ。父親が誰なのかということははっきりしづらい面がある。確信を持てるのは母親だけだろうし、その母親だって確信を持てないことだってあるのだろう。さすがにその母親から産まれたということは周りの人間にも認識できるし誤魔化しもできない。そんなこともあって偉大な人物は特別な生まれ方をしている、父がいないのだという言われ方をしてきたようだ。
マタイもそれに倣って、イエスもただの人ではない特別な偉大な人なのだということを伝えようとしているのだと思う。そしてただの特別な人物ではなく聖霊によって生まれた、つまり神の計画のうちに生まれた、要するにイエスこそがキリストなのだということをマタイは一番伝えたかったのだと思う。
マタイは1:23でイザヤの言葉を引用している。旧約聖書はだいたいヘブライ語で書かれていたけれど、当時はそれを読めないユダヤ人も多くなっていてそれをギリシャ語に訳してそれを読む人が多かったらしく、マタイもそれを引用しているらしい。
そしてこの「おとめ」という言葉だが、もともとのヘブライ語では若い女性という意味であるけれど処女という意味はない。けれどギリシャ語に訳したときに処女という意味も含む言葉に訳されたということだそうだ。
そういうことからこんな話しになったのか、あるいは実際結婚する前に妊娠したことからこんな話しになっているのか、それもよく分からないというのが正直なところだ。
また最初に書かれた福音書であるマルコによる福音書にはクリスマスのことは何も書かれていない。最初に言ったようにルカによる福音書には詳しく書かれているけれど、これはマタイによる福音書とは随分違っているというか矛盾しているところだらけだ。同じなのはベツレヘムで生まれたということくらい。しかもベツレヘムで生まれたいきさつも全く違っている。
片隅に生まれた
本当はイエスの誕生がどうだったのか、ほとんど誰も知らないのだと思う。「この世界の片隅に」という映画があるけれど、イエスも世界の片隅でほとんど誰にも知られずに生まれてきたんだと思う。生まれた時のいきさつなんてのもほとんど伝えられていないに違いない。
後々イエスをメシアである、救い主であると信じるようになった人達がイエスのことを伝えるために、イエスがメシアであると分かってもらうためにまとめたのが福音書だ。マタイは特にユダヤ人にそれを伝えるために旧約聖書を引用して、ここに書かれていた約束が成就したという言い方を何度も使って、イエスこそが旧約時代から約束されたメシアなのだということを一所懸命に伝えようとしている。その一貫としてこの誕生物語も出来ているようだ。
クリスマスなのに聖書を全否定するような話しで、これこそが消防牧師なのかなという気がしている。
処女降誕が本当だと思う人は思えばいいし、思えない人は思わなくてもいいと思う。誕生のいきさつはどうあれ、神がイエスを通して、神がイエスとなってと言った方がいいのかもしれないけれど、イエスを通して神の言葉を私たちに伝えた、そのことをマタイは伝えたいのだと思う。
だからこそ、クリスマスでうきうきするのもいいと思うけれど、それ以上にイエスの語るイエス自身の言葉を聞くことこそ大事なことなんだと思う。