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礼拝メッセージより
おみごと
イエスが「旅に」出ようとされると、と書かれている。ずっと旅していたような気がするけど改めて旅に出たようなことが書かれていてなんだろうと思っていたら、原文では「道に」出ようとするとという言葉なんだそうだ。
そうすると『ある人』がイエスに走り寄ってきた。この人は財産を一杯持っていたと書いてある。同じ内容の話はマタイによる福音書にもルカに福音書にもでてくる。マタイではこの人は青年と書いてあり、ルカでは議員と書いている。この人は若い議員だったのか?
この人はイエスに走り寄って、ひざまずいて尋ねている。聖書にはイエスを試そうとか、罠に掛けてやろうとかいう人が度々出てくるが、この金持ちはどうやらそういった類の人たちとは違っているようだ。
イエスを尊敬していて、教えていただきたいことがある、この偉大な先生から聞きたいといった気持ちからこういった態度に出たようだ。
そしてこの人の質問は「善い先生、永遠の生命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」というものだった。
その後のイエスとの会話によれば、律法は小さいときからずっと守っている、それも自信を持って人に言えるほどだった。こういう人こそイエスからお褒めの言葉をもらってもいいんじゃないかと思う。あなたの熱心さはすばらしい、その向上心が大切だとか何とかいってあげても良さそうな気もする。
永遠の命
ところでどうしてこの人はイエスに永遠の命のことを聞きに来たのだろうか。律法はしっかり、きっちり守っていると公言できるような立派な信仰者だったようだ。財産を一杯持っているということも、それだけ神に祝福されていると考えられていたようだし、誰からも立派な人間だと認められているような人だったんだろうと思う。
今の教会で言えば、敬虔なクリスチャンと言われ、礼拝には毎週毎週出席し、いっぱい献金し、教会の奉仕もよくして、おまけに社会的にも信用があり、堅実な仕事をしている金持ち、と言ったところかもしれない。
この人は、永遠の命を受け継ぐには何をすればいいかと聞いた。そもそも律法をしっかりと守ることは、神との関係をしっかりと持つためなのではないかと思う。そして神との関係をしっかりと持つということが、すなわち永遠の命を受け継ぐことでもあるはずだったんじゃないかと思う。
しかし彼は、律法は守っているけれど永遠の命を受け継いでいるという気持ちになれていないということだったんだろう。完璧主義者だったのだろうか。もしまだ足りないものがあっては大変だと心配していたのだろうか。
あるいはやるべきと言われたことを全部やってきてもぬぐえない不安のようなものがあったのではないだろうか。永遠の命を手に入れているという確信というか、永遠の命を持っているという喜びや安心を感じられていなかったんじゃないかなと想像する。
何をしたら
「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」と書いてある。実はこの「慈しんで」というのは原文では「愛して」となっているそうだ。
律法は子供の時から守ってきました、と答えるこの人に対してイエスは「あなたに欠けているものが一つある」と言う。それは「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」と言うものだった。
この人はイエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った、たくさんの財産を持っていたからである、と書いてある。
イエスは何故そんなことを言ったんだろうか。財産を手放すことが、そして施すことが永遠の命を得る条件だと言いたかったのだろうか。財産を全部手放せば合格と言いたかったのだろうか。
多分そうではないだろうと思う。イエスは敢えて出来もしないようなことを言ったんじゃないかと思う。この人は自分に足りないことは何なのか、何をすれば完全になるのかと聞いてきたことに対して、完全でならなくてもいいと言いたかったんじゃないかと思う。
つまり何かをすることで永遠の命を手に入れようとすることに対して、そういうことではないんだと言いたかったのではないかと思う。
だから、何かをして手に入れようとしているのだったら律法を守ることは知っているではないか、と答えた。それに対してそれは守っていると答えたこの人に対しては、そこまで言うならば、つまり何かをすることで永遠の命を得ると言うならば、自分の財産を売って施しなさい、そんなこと出来ないだろうと言いたかったのではないか。つまり自分で何かをして、その代償として永遠の命を手に入れようとしても出来ない、ということを言いたかったのではないか。永遠の命なんてのは自分が何かいいことをして、そしてその代償として手に入れるものではないんだ、ということを言いたかったのではないか。
不完全
今日の聖書のすぐ前のところでは神の国の話が出てくる。子どものように神に国を受け入れる者でないとそこには入れない、とイエスは言った。それは子供のように純真無垢にならないといけないということよりも、そうではなく、子供のように何もない、何も出来ない、何も持っていない、ただ神の招きを受け入れる者、受け取るものこそが入れると言っていると思う。
つまり神の国とはただ受け入れる人が入ることが出来るのであって、自分で努力して手に入れる人が入るのではないらしい。立派なことや正しいことをしてきたという功績、業績を持つことで、そこに入ることが出来る、手に入れることが出来ると言うものではないと言うことだ。
神の国に入るということと永遠の命を受け継ぐということは結局は同じことを言っているのだと思うけれど、それはただ死んだ後天国に行くとか今とは違う死なない命を持つというではなく、今この時を神との関係を持って生きるということなんだろうと思う。
神に愛されている、大切に思われているということを、私たちが受けとめ、受け入れること、そこで初めて神との関係が出てくる。それこそが永遠の命を引き継ぐこと、神の国に入るということだろう。だから、神の国とか永遠の命というもの、それはただ受けるものなのだ。神からいただくもので自分の力で手に入れるものではない。
自分に何ができるとか出来ないとか、何を持っているとか何も持っていないとか、そんなことは問題ではない。完全にならないといけないなんてことはない、不完全なままでいいのだ。
自分に何ができるとかできないとか、何を持っているとか持っていないとか、そんな風に自分の事にばかり目を向けるのではなく、神に目を向けなさい、神は何も持っていない、何も出来ない者をも愛してくれている、大切に思ってくれている、そんな神をこそ見なさい、そんな神がいつもあなたのそばにいるじゃないか、その神に目を向けなさい、イエスはそう言っているんじゃないだろうか。