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礼拝メッセージより
子供達
昔「子供達を責めないで」という曲があった。曲と言っても歌ではなくて朗読だったけれど。
「子供達を責めないで」
私は子供が嫌いです
子供は幼稚で礼儀知らずで気分屋で
前向きな姿勢と 無いものねだり 心変わりと 出来心で生きている
甘やかすとつけあがり 放ったらかすと悪のりする
オジンだ 入れ歯だ カツラだと
はっきり口に出して人をはやしたてる無神経さ
・・・
私は思うのです この世の中から子供がひとりもいなくなってくれたらと
大人だけの世の中ならどんなによいことでしょう
私は子供に生まれないでよかったと胸をなで下ろしています
・・・
スクスクと背ばかり高くなり 定職もなくブラブラしやがって
逃げ足が速く いつも強いものにつく
あの世間体を気にする目がいやだ
あの計算高い物欲しそうな目がいやだ 目が不愉快だ
何が天真爛漫だ 何が無邪気だ 何が星目がちな つぶらな瞳だ
・・・
そんな子供のために 私達おとなは 何もする必要はありませんよ
第一私達おとながそうやったところで ひとりでもお礼を言う子供がいますか
これだけ子供がいながらひとりとして 感謝する子供なんていないでしょう
・・・
子供はきらいだ 子供は大嫌いだ 離せ 俺は大人だぞ
誰が何といおうと私は子供が嫌いだ 私は本当に子供が嫌いだ???
そんな曲だった。嫌いだと言いながら本当は自分も子供のように自由でありたいという気持ちなのかもしれないなと思う。この箇所を読むといつもこの曲を思い出す。
憤り
イエスに触れていただくために子供たちを連れてきた人々を弟子たちが叱った、多分それは弟子たちのイエスに対する配慮だったのだろうと思う。命の危険を感じつつエルサレムに向かっている時だった。そんな時に子どものことなどかまってはいられないんだ、という気持ちがあったのではないかと思う。
大事なことだからということで今でも女子どもは排除することがある。女人禁制なんてものがいまだにある。そして大人なら構わないが、子どもの来るところではない、ということがある。それが宗教的になるとことさら大人の男だけのものになったりする。そうすることで自分達だけが特別なのだという気分になったりもする。
しかしイエスはそんな弟子たちの行動に憤ったと書いてある。ただ叱ったとかではなく憤った。これは、このことはただごとではないということだ。でも何でイエスはそんなに憤ったのだろうか。
持つこと
イエスは「子ども達をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と語った。
子供は純粋で穢れもなくて、そんな風に素直な純粋な信仰を持つ者こそが神の国に入れるのだ、だからあなたたちも疑いを持たないで罪も穢れもない子供のように、素直に純粋に神を信じましょう、ということを言っているのかと思っていた。でも子供だからといってただ純真なうぶな心だけを持っているわけではなくて、子供が嫌いだーと言いたくなるような面を持っているのも事実だ。そして聖書を通してみるとイエスも、素直な信仰を持てとか疑いを持ってはいけないなんてことは言ってないと思う。罪も穢れも全部なくせなんてことも言ってないと思う。
また神の国はこのような者たちのものだなんて言っているけれど、神の国なんて聞くとなんだかとても信仰熱心な人たちのもののような気がする。しかし子どもたちが熱心だったわけではない。子どもたちに特別の信仰があったわけでもない。彼らは大人に連れてこられてそこにいるだけの存在だ。
ある人はこんなことを言っている。『人はいろいろなものを持ちたがり、ついには信仰をも持ちたがる。』
人はいろんなものをいっぱい持つことで自分の価値が出てくるんじゃないかと思うようなところがある。能力や財産や、実績、業績、そんなものをいっぱい持っていることに価値があるというような風潮があるし、自分でもそんな思いが強い。いっぱい持っている人を勝ち組だなんていう言い方があるけれど、何も持っていない自分は負け組だなと思ってしまう。
信仰はどうなんだろうか。信仰深い人が神に助けられたという話しを聞くと、そんな確かな信仰を持っていない自分に駄目出しされているような気になってしまう。よく信仰を持つというけれど、信仰は持つものなんだろうか、信仰は握りしめていなければならないものなのだろうか。振り落とされないように必死でつかむことが信仰なんだろうか。
何もない
イエスは子どもを「神の国はこのような者たちのものである」と言って抱き上げて祝福した。
抱き上げるほどの子どもということはかなり小さな子どもだったのだろう。口語訳は子どもを幼子と訳している。
生まれたばかりの乳飲み子は全く一人では生きていけない。自分を生かしてくれる人がいなければ生きていけない。しかしだからといって自分の世話をしてくれる人、たとえば母親に対して何かをするわけでもない。ただ与えられる物をもらうだけ。でも母親を絶対的に信頼している。信頼しようと決意すらしない。
信仰とは神と私たちのそういう関係なのではないか。信仰を持つなんていうと一生懸命に信じる行為のように思いがちだ。必死に神を拝み倒す、必死に信じようとする、そして疑いや不安をない純粋な思いであることを訴えようとする、そんな風に必死で神を掴んで離さないことこそが信仰だと思いがちだ。そういう意味での信仰心は幼子にはまるでない。
しかしイエスは神の国はそんな子供たちのような者たちのものだ、そして子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、と言われている。子どものように受け入れるとは、素直にというか単純にもらうということではないかと思う。こんな惨めな駄目な自分が神の国なんてとんでもないとか、なんてことを考えずに素直に受け取るということなのではないかと思う。
神の国はそんな子供のように、何も持っていない者たちのものだ、と言っているのではないか。そしてイエスは何かを持っていないと不安で仕方ない人に、そしてこんな自分では駄目に違いないと思っているに対して、「そのままでいいんだ」と叫んでいるような気がしている。「何も持っていない、何の飾りもない、そのままのおまえ自身を私は求めている、そのままのお前が大切だ」と言っているのではないか。
そのまま
ある人がこんなことを言っている、『私たちはいつもこの二つの責め言葉におびやかされている。ひとつは「信仰がなければだめだ」。もうひとつは「そんな信仰ではだめだ」。』
こんな信仰ではだめなんじゃないか、と思ってしまう。こんな自分ではだめだと思って自分を責めてしまう。何も持っていない、何も出来ていない自分のことをみんなから、そして神からも責められるのではないかと怯えている。
でもイエスはきっと、何かをもっているかどうかは問題ではない、お前がどんな状態だろうと関係ない、おまえ自身がとても大事なのだ、そのままのおまえが大事なのだ、そう言われているのではないか。
そう言ってくれているイエスが自分を掴んでくれているというか抱きかかえてくれている、いつも一緒にいてくれている、そのことを受け入れること、つまりそれを認めること、それこそが信仰なのだと思う。
神の国とは私たちの努力によって入るところではなくて、それでは決して入れるところではなくて、逆に子供のようにただ受け入れるもの、そのままの自分を受け入れてくれるイエスの招きにただ応えるものだけが入れるところなのだろう。
そんなイエスが私たちと共にいるところ、そこが神の国なのだ。