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礼拝メッセージより



「再出発」 2024年11月10日 
聖書:マルコによる福音書 10章1-12節
聖書はこちらからどうぞ。
(日本聖書協会のHP)

 イエスがユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行ったときの話だ。
 ファリサイ派の人々がイエスに尋ねた。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」と。
 ファリサイ派とは律法を一所懸命に守ろうとする人たちで、律法のことにはとても詳しかった。だから妻を離縁することが律法に適っているかどうかよく知っていたはずだ。つまりイエスに答えを求めたのではなくて試そうとしたということだ。
 少し前に、その地方を治めていたヘロデという王が兄弟の妻と結婚したことを、バプテスマのヨハネがそれはいかんと言ったために捕られられ殺されてしまったということがあった。ファリサイ派はその手でイエスを陥れようとしたのかもしれない。
 しかしイエスはその後の会話を見ると結婚についての神の意思は何なのかということを答えている。ファリサイ派は離婚について聞いたが、イエスは結婚について答えているようだ。そのためになんだかうまくかみ合わない議論になっているような気がする。

 イエスは、モーセはあなたたちに何を命じたかと聞いた。旧約聖書にどう書いているのかと聞いたと言うことだろう。彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えた。旧約聖書の申命記24:1に「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」に書いてあって、そのことを答えたようだ。
 イエスは「あなたがたの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と応えた。律法ってモーセが考えたものだったのだろうか。それは置いておいて。
 イエスは「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言った。
 創世記2:24に「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」とあって、そのことを言っているようだ。

 どうでもいいけど、ここで言われている男と女とはアダムとエバのことで、男は父母を離れてといわれているけれど、アダムは神に造られたので父母はいないはず。もちろん一般的な男と女の話をしているんだろうけれど。もう一つ、父母を離れるのは男の方だ、と神学校の先生が言っていた。
 結婚とは自立した二人が父母を離れて家庭を築くように、父母が口をさしはさまない。これが天地創造の初めから定められているということのようだ。

 イエスの答えは、神が結び合わせたものを、人は離してはならない、というものだった。結び合わせた、とは共のくびきにつないだ、という意味だそうだ。二頭の牛が一緒に軛につながれて仕事をするように、一緒になったのだという。

 当時は今よりももっと男尊女卑の社会だったようだ 。妻は男の所有物のような感覚だったらしい。だから妻の処遇も男の勝手にできるという考えだった。離婚をする時に問題となるのは女の罪で、男は全然関係なかったようだ。離縁するのも男の側からで、申命記にあるように、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなれば夫が離縁状を渡せば離縁できるということで、不貞を働いた時という考えもあったらしいけれど、料理を焦がしたことでも離縁できるなんていう考えもあったそうだ。

 女性の立場は経済的にも弱くて、夫の勝手で離縁されてしまうと途端に貧困になってしまい、仕方なく娼婦になるしかないというような社会状勢でもあったようだ。

 しかしそんな時に何かあれば適当に離縁状を書いて放り出せばいい、というような思いが男たちにはあったんだろうと思う。だからこそイエスは結婚とはそんなものじゃない、結婚するということは妻を所有するというようなことではない、一体となるということだ、気に入らなくなったと言って簡単に離縁できるような、そんなものではないと言いたかったのだろうと思う。

 ファリサイ派の人々は離縁することが律法に適っているかどうかなんていうことを論じているけれど、結婚とはどういうものなのか、そのことを見直しなさいと言われているような気がする。

 最後の弟子たちが尋ねた際に、
 イエスは「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる」(11節)と言う。男も罪を犯すことになるというわけだ。
 これって離縁の話しだけではなくて再婚の話しだよなあ。再婚したいために離縁しようとする男に対する言葉のよな気がする。それこそが姦通の罪だと。
 12節はなんだか付け足しみたいだ。妻からは離縁できたんだろうか。

 結局ここは離婚は律法に適うのかどうか、それは罪なのかどうかなんていう話しをしているわけではないんだろうと思う。
 女性を、妻をどれほど大事にしているのか、大事に見ているのか、結婚の話しを通して見つめ直せと言っているのではないかと思う。

 イエスは、結婚とは二人が一つになることだと言っているけれど、離婚は罪だなんてことは言ってないし、言いたいのではないと思う。
 離婚した人、離婚することで苦しみ傷ついた人を前にしてとしたら、イエスはどんなことを言うんだろうか。離婚は罪だなんてことは言わないだろうと思う。イエスならばその苦しみや痛みに寄り添い共感するんだろうと思う。そしてその人の再出発を励ますんじゃないかと思う。

 離縁することが律法に適うかどうか、自分の行いが許されるかどうか、そんなことよりも、結婚した相手を大事にしているのか、一体となった者として大切にしているのかどうか、そんなことが問われているんだろうと思う。