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礼拝メッセージより
特別
今日の箇所は、イエスの12弟子の一人であるヨハネが、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者に対して、自分たちに従わないのでやめさせた、ということをイエスに報告したところだ。
勝手にイエスの名を使うとは何事か、イエスに従っている俺たちがイエスの名を使うのならまだしも、従ってもいないくせに何事か、というような気持ちがあったのではないかと思う。弟子たちは自分たちが他の者たちとは違う、特別な弟子なのだという意識があったんだろうと思う。だから自分の判断でやめさせようとしたのだろう。
ヨハネがイエスにこのことを報告したとき、ヨハネはイエスに褒められると思っていたのではないかと思う。
しかし、イエスはヨハネを叱っているようだ。どこの馬の骨とも分からない者の方を弁護している。そして弟子たちの考え方の方を批判している。自分たちだけがイエスの弟子だ、自分たちこそ正当なイエスの弟子だ、自分たちこそエリートだという思いをイエスは批判したのではないだろうか。そしてわたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである、なんてことを言っている。
そして41節では、「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたにいっぱいの水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」なんてことも言っている。
報いとはなんのことなんだろうか。
小さい者に
逆にイエスを信じる小さいものの一人を躓かせることに対しては、イエスは強い憤りをもっているようだ。これに続く一連の言葉は恐怖心さえ覚える。
イエスは極端な言い方をして、それほどまでに小さい者のことを思っているということなのかなと思う。
でもよく見ると手や足や目を捨てろと言われているのは、それがあなたをつまずかせるなら捨てろと書かれている。この「あなたを」というのをずっと見てなかった。小さな者をつまずかせるなら手や足や目を捨てろと言われてるのかと思っていた。ちゃんと聖書を読んでないことに今更気がついてびっくりしている。
ひとこと
それはさておき、昔ある教会の婦人会でこんなことがあったと聞いたことがある。
新しく教会に来て、熱心に通っていて、婦人会にも出席するようになった人がいたそうだ。ある時の婦人会にその人がケーキを焼いてきて、みんなで食べたそうだ。その時ずっと昔から教会に来ている婦人が「あら、以外とおいしいじゃない」と言ったそうで、それ以来その人が来なくなったそうだ。
教会に長いこと来ていると、聖書の知識も増えてきて、教会のしきたりや流儀も身に付いてきて、自分は世間一般の人間とは違うという思いになってきてしまうのだろうか。そして新しい人たちに対しては、自分たちの教会に入れてやるというような気持ち、自分たちが一段高いところにいるような気持ちになるのかもしれない。それが、意外とおいしいじゃない、という言葉につながっていったんじゃないかと思う。
塩
イエスは小さな者をつまずかせるという話しに続いて、自分自身の内に塩を持ちなさい、と言われた。躓かせないためには自分自身の内に塩を持ちなさい、ということなんだろうと思う。
では塩を持つということはどういうことなんだろうか。それは、自分が特別ではないということを自覚するということではないかと思う。クリスチャンになったから、教会員になったから、偉く立派な人間になったわけではないということを知っているということではないかと思う。
また自分こそ小さい者をつまずかせる者であるということを自覚するということではないかと思う。それは自分の弱さ、だらしなさ、駄目さを自分で知っているということ、自分の罪深さを自覚しているということではないか。
傷跡
でもそれは結構しんどいことだ。塩とは、それを持っているために落ち込んだり、苦しんだり、悩んだりするようなものなんだろうと思う。何で自分はこんなんだろうと悩むような、何とか捨ててしまいたいと思うようなこと、いわばそんな古傷のようなもの、それが塩なのではないか。何かある度に私たちの心を痛くさせる、苦しめる、悩ませる、触れるだけで痛みがぶり返す、そんな傷跡をしっかりと持っているということなのではないかと思う。そしてそんな塩、傷跡をイエスは持っていなさいと言っているように思う。
そんな傷跡を持っている人、苦しみや痛みを経験してきた者はどこかやさしさを持っているような気がする。
大学に入ったとき、同級生には現役で入った者と、1年とか2年とか浪人して入った者とがいた。しばらくしてなんとなく感じたのは、浪人して入った者の方がどこか優しさがあるということだった。入試を失敗して浪人したという苦しい経験、そんな傷が彼等を優しくさせていたんじゃないかと思う。
そんな風に傷を持ったもの、塩を持った者の方が、優しい言葉を語ることが出来るのだと思う。自分の駄目さ、罪深さを自覚している者の心から出てくる言葉、自分自身に塩を持っている者の言葉、自分こそエゴの固まりである、自分こそ偽善者であると自覚している者の言葉、そんな人の言葉の方が優しく聞こえるように思う。そしてそれは言わば塩味の聞いた言葉なのではないかと思う。
だからこの塩味の利いた言葉は、相手にとって塩辛い言葉ではなく、塩辛い経験をした者から出る言葉、塩辛い思いの中から出てくる言葉のことなんじゃないかと思う。
逆に塩味が抜けるということは、自分の罪深さを忘れて、自分が偉くなったと思うこと、立派になったと思うこと、信仰深くなったと思うこと、相手よりも優れていると思うことなんだと思う。そういう思いから出る言葉は、塩味のきいていない、そして相手を傷つける、切り捨てる言葉になるのではないか。
鼻ぺちゃ
昔、子どもが小さい時に車の中でゴスペルソングのテープを聞いていたことがあった。その中は、歌と一緒にお姉さんと子ども達の会話も入っていた。その会話の一つに、ある子どもがちびと言われたので鼻ぺちゃと言い返して喧嘩してしまったという話があった。それを聞いていた別の子どもが、「ねえおねえさん、私たちは一人一人神さまに作られたのでしょう。神さまが作られたものを悪く言うのは間違っていると思います。」というのがあった。
その言葉はまったく正しいのだろう。確かに神が創った物を悪く言うのは間違っているだろう、でもそれは自分に塩を持っている者の言葉ではないのではないか。一度も人を悪く思ったことのない、一度も悪口も言ったことのない、一度もけんかをしたこともない、人の痛みをまるで知らない人間の言葉ではないかと思う。理屈としては合っているだろうが、その言葉に愛はあるのか。喧嘩してしまって落ち込んでいる子どもを断罪し、余計に傷つけているだけじゃないかと思った。
神が造った者を悪く言うのは間違っているというのは教会の理屈としては正しいことだろう。けれどその正しさを相手にぶつけることで逆に相手を傷つけてしまうことだってあるんだと思う。そんなテープに噛み付いて大人げないという気もするけれど。
教会では、神がこう言っている、聖書にこう書いている、だからこうしましょう、こうしないといけません、というような、いわば神の立場に立って、罪も汚れも全く持ってないかのような発言を聞くことがある。そんな相手の痛みをまったく見ない、塩を持っていない者の言葉を語りがちだ。一番言っているのは牧師かもしれないけれど、でもそんなこと言われても傷ついている人や苦しんでいる人には何の慰めにもならない。どころか余計に苦しめ傷つけてしまうだろう。
傷跡
イエスは自分自身の内に塩を持ちなさい、と言った。しっかり塩を持って生きていきたいと思う。痛みを持っている者として、傷を持っている者として、罪をもっている者として生きていきたいと思う。
罪も汚れも失敗も挫折もなかった者のようになるのではなく、あるいは克服したかのようになるのでもなく、今も傷や痛みを持っている者として生きなさいと言われているのだと思う。
その傷があるから初めて私たちは愛することができるんじゃないかと思う。傷や痛みがあるから初めて、傷つき苦しんでいる人と共感することができるのではないだろうか。そこで初めて相手を励まし慰め癒す、そんなやさしい言葉を話せるようになるんじゃないかと思う。正しい言葉、立派な言葉よりも、塩味の聞いた優しい言葉を語り続けていきたいと思う。
折り紙
人生は一枚の紙のような気がしている。生まれたときにはきれいな紙だけれど、時には傷ついたり失敗したり叱られたりするとくしゃくしゃになる。でもそれをまた手で広げて平にする。でもやっぱり折り目は折り目として残っていく。折り目があると小さな衝撃ですぐに折れてしまう。
折り目がないかのように、きれいな一枚の紙であるかのように見せたくて一所懸命に平にしようとしても、一度出来た折り目はなくならない。そうやって折り目を少しずつ増やしていく、そのくせ折り目を見せないようにする、折り目のないきれいな紙であるかのように見せたがる、そして出来もしないのに折り目をなくそうとして一所懸命になっている、そして折り目がなくなって綺麗になったと言って自慢する、そして折り目のある人を見ては見下し責める、それが人生なんじゃないかという気がしている。
でも綺麗な紙では折り紙はできない。折り目がいっぱいあることできれいな折り紙ができる。
傷つくということは痛いことだ。でもその傷から愛とか優しさがうまれるんじゃないだろうか。だから傷跡をしっかりと抱えて生きていきたいと思う。