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礼拝メッセージより
受難予告
受難予告は8:31以下の所にもあり、10:32以下にもある。イエスが自分の死と復活を予告した後に、8章ではペトロがイエスをいさめたとあり、10章ではゼベダイの子ヤコブとヨハネが、栄光を受けるときには右と左に座らせてくれと言ったとある。そして今回は誰が一番偉いかと議論し合ったとある。イエスが死と復活を予告しても弟子たちは3回とも全然理解できなくて、まるでトンチンカンな返答をするというパターンがあるようだ。
しかしイエスは自分の死と復活を知っていたのだろうか。知っていて予告したんだろうか。イエスが本当にそう言ったのなら、十字架を目の当たりにした弟子たちの反応はもっと違ったような気もするけれど、どうなんだろうか。聞いたとしてもまるで信じなかったのかもしれないけれど。
いちばん
その後カファルナウムに行く途中、弟子たちが議論していた。そしてカファルナウムについてからイエスが何を議論していたのかと問う。この議論する、という言葉はもともと「ひそかに思いめぐらす」というふうな言葉、内緒の話といった言葉だそうだ。だから、そのことをイエスに聞かれても何も言えず黙ってしまった。「誰が一番偉いか」ということを話し合っていた、なんてことは恥ずかしくて言えなかったのかな。
それに関連するような話しが35節に出てくる。35節でイエスは「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言っている。
一番は一番前にいる者でなく、一番後ろにいるものだというのだ。一番は何でも命令する人ではなく、逆に人に仕える人だというのだ。仕える人とは、もともと食卓で給仕をする人のこと、そしてそれは奴隷の仕事だった。奴隷が主人に仕えるように、人に仕える者、いちばん先になりたい者はそういう者になれとイエスは言う。
受け入れる
次の場面では、一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、このような子どもを受け入れる者は私を受け入れるのだ、わたしを受け入れる者は、それは神を受け入れるのだと言われた。
多分その家の中をうるさく走り回っていたのかもしれない。うるさいばっかり、手ばかりかかる、誰かの助けなくしては生きていけない、そんな子どもを受け入れることがイエスを受け入れることになるというわけだ。子どもは天真爛漫で無邪気だから、だから受け入れるということではないだろう。手がかかって、ろくに役にも立たない、ほとんどじゃま者でしかないような、そんな者を受け入れることが、イエスを受け入れることだというのだ。
受け入れる、とはどういうことか。それはその人のことをずっと見ている、ということではないか。ずっと視野の中に入れていく。ずっと気に掛けていくということだろうと思う。
かけっこで競争する時、一番前を走っていく者が一等賞になる。しかしその人には他の誰も目に入っていない。一番最後に走っていく者はドベだ。しかしその人には全員の姿が見えている。だれがどのように走っていっているのかが見えている。
あえてみんなの姿を見ながら走ること、それが受け入れる、ということかもしれない。だれかが転んでしまったとしても、後ろにいるならばそれが分かる。その人を助け起こすこともできる。もちろんそのまま追い抜くこともできるが、そうするとその人のことは見えなくなってしまう。
敢えて後ろにいて、みんなのことを見ていく、受け入れていく、そのことが大事だと言われているのではないか。一番弱い人、役に立たないような、価値のないような人を受けいれる事がイエスを受け入れることだと言っているようだ。
しかし、そうすることで、あなたはあの人の面倒をよく見た、よくやったと言ってそのことをイエスは褒める、と言っているのではない。
その人を受け入れることはイエスを受け入れることなのだ、とイエスは言っている。そうすると、そんないかにも役に立たない人は、全くイエスそのものなのだと言っているようだ。
マザーテレサというカトリックの修道女の映画を見たことがある。彼女がインドの道端で倒れて死にかけている人を助けたり、見とったりしていた。
映画の中である人が彼女にどうしてこんなことをするのか、こんな死にかけている人の世話をしても仕方ないだろう、この人たちがクリスチャンになるわけでもないし、といったようなことを言った時に、マザーテレサが、この人たちはイエスさまなのだ、キリストなのだ、わたしはキリストの世話をしているのだということを言っていた。
何を言ってんだろうこのおばさんと思った。どうしてそんなことを言うのか分からなかった。ずっと。ちょっとおかしいんじゃないのか、入れ込みすぎてんじゃないのか、とも思った。でも大分後になって、イエス自身がその通りのことを言っている、マザーテレサの間違いじゃなかった、彼女の単なる思い込みではなかったということを知った。
誰かに命令されたから大変な人の世話をするのではなく、そうすることが、いいことだから、ということとは少し違う気がする。この人はキリストなんだ、私はキリストにしているのだ、ということなのだ。だからそんな人のことを放っておくということは、神の命令の逆らうというよりも、神を無視しているということになるのかもしれない。
そしてそのマザーテレサの映画の中でよく覚えている光景がある。それはミサの時に、彼女は他のみんなの修道女と同じ列の中にいて、それも後ろの方にいて、それがごく自然だったこと。
有名な彼女は他の人とは別格で違う所にいるわけでもなく、またわざとらしく一番うしろにいるわけでもなく、ごく自然にみんなの中にいて、他の人も彼女がそこにいることに何の違和感も持っていない様子だった。そのことがとても印象的だった。
何を見ている
小さい頃から周りと比べられて生きてきた。あそこの子はよく喋るのにお前は何も話さないとよく言われていた。何かにつけて比較されてきたように思う。そして自分の方が優れていると思える時は思い上がり、劣っていると思っている時は落ち込む、そんな癖がついている。
僕は礼拝の人数が減ったとか献金が減ったとか、いつも嘆いているけれど、教会を大きくする牧師と自分を比較して、ちっとも大きく出来ない自分は駄目な牧師だと嘆いてばかりいるんだろうなと思う。
いちばんになりたいとまでは思ってないつもりだけれど、隣りにいる誰かといつも比較しているのかなと思う。そして比較する相手と自分のことばかり見ているんだろうなと思う。
そんな比較する誰かのことばかり見るんじゃなくて、もっともっと見るべき人がいるじゃないかと言われているのかもしれないと思う。よその牧師よりも見るべき人がいるだろう、自分の教会の人たちのことこそしっかりと見なさいと言われているのかもしれない。
弟子たちが誰がいちばん偉いかと議論したとあるけれど、誰かが言っていたけれど、誰が一番能力があるかとか知恵があるかとかということではなくて、誰が一番イエスを助けたか、誰が一番イエスに奉仕したかというようなことを議論していたのではないかと言っていた。
教会でも誰が一番奉仕しているか、誰が一番大事な奉仕をしているかなんてことを考えがちではないか。あの人はあんなにしてるのに自分は何もしてない、なんてことを思いがちだ。
しかしそんな比較する相手と自分のことばかり見るのではなく、他に見るべき人がいるじゃないか、その人たちのことをちゃんと見ているのか、教会に来ている人たち、新しくきた人達、教会の周りにいる人たち、そんな人たちのことをしっかりと見ているのか、そう言われているような気がしている。
そんな人たちを見ていないということは結局はイエスを見ていないということになるのかもしれない。道理で見つけられないわけだ。