【礼拝メッセージ】目次へ
礼拝メッセージより
議論
14節に一同がほかの弟子たちのところへ来てみると、とあるがその前の所を見ると、イエスとペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子が山へ登っていたことが書かれていて、その山から下りてきたということのようだ。そうすると他の弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて律法学者と議論していたという。
群衆はイエスを見つけて非常に驚いたと書かれている。何をそんない驚いたんだろうか。そうかと思うと駈けよって挨拶している。
イエスが何を議論しているのかと尋ねると、群衆の中のある者が答えた。16-18「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」。これはてんかんの症状に似ているそうだ。当時はこういうことは悪霊のしわざと考えられていた。
父親は弟子たちに霊を追い出してくれるように願ったが出来なかった。弟子たちに期待したのに裏切られたと言っているようだ。
かつてイエスは弟子たちを「宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせた」(3:15)と書いてある。また「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」(6:12-13)なんてことも書かれている。
しかし今回弟子たちは悪霊を追い出そうとしたのに出来なかった。どうやらそのことで律法学者たちと議論していたようだ。
てんかん?
19節「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」。
何なんだろうこの言葉。何をそんなに怒っているんだろうか。嘆いているんだろうか。どうして信仰のない時代という話しになるんだろうか。
20節「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。」
できれば
イエスは父親に子どもの病歴を尋ねる。父親は不幸な苦しい過去を告白する。そして「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と悲しい過去を話す。
父親は子どもを治すために小さい頃からあらゆる手段を講じてきたのであろう。そしてことごとく裏切られてきたのだろう。
期待すればするほど、そうならなかった時の落胆は大きくなる。だから初めからあまり期待しないようになっていったのではないか。「できるならば」と思うことで裏切られたときの落胆をなるべく小さくしようとしたのではないかと思う。ごくごく自然な成り行きだと思う。
しかしイエスは、23節で「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言っている。何故こんなこと言ったんだろうか。まるで不信仰を責めているかのような言葉だけれどそうなんだろうか。
不信仰を駄目だと言われたら私たちは立つ瀬がない。不信仰の極みでありながら教会に集っているのが現状だ。神を信じきれない、完全に神に任すことのできない面をどこかに持っているのが私たちの実態だろうと思う。願いが叶わないときのショックを和らげるためにできるならばと言うことはダメなことなんだろうか。そのことをイエスは戒めているのだろうか。そう言われても困ってしまう。
「できればと言うか」というのをイエスはどんな口調でいったんだろうか。責めるような言い方だったんじゃなくて、残念な気持ちだったんじゃないかという気がしている。イエスは「できれば」という言葉にこの父親との距離を感じているんじゃないかという気がしている。
もっともっと
父親はイエスの迫力に押されるかのように、「信じます」と答えている。「信じます、不信仰な私をお助けください。」これは変な言葉、矛盾していることばだ。信じます、ということは不信仰ではないと思うけど。
29節に、この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ、なんて言葉がある。
悪霊を追い出す方法は聞いていて、あるいはイエスの仕方を見ていて、自分にも出来ると思って、それを神に頼むことをしてなかった、祈らなかったということなんだろうか。
僕は祈るのが苦手だ。特に人前で祈るのは大嫌いだ。それに祈るってどういうことなんだろうとずっと考えている。何かあればすぐに祈りましょうというような牧師もいるけれど、すごいなと思う。まるで何でも親に話しをする、相談するかのように祈る人がいるけれど、そんなこと出来ない。思い返せば親に向かってなんでも話すとか相談するとか、ほとんどしてこなかったなあと思う。だからすぐに祈ろうということにならないのかもしれないと思う。
何でも祈るということをしないと言うことは結局は神を信頼してないというか、何でも安心して神に頼めるというか、何でも頼っていいという感覚がないんだろうなと思う。
イエスは「できればと言うか」と言ったけれど、もっと近くにいてほしい、もっと信頼して欲しい、もっと何でも話して欲しい、もっと頼っていいんだ、もっともっと頼りなさい、イエスはそんな思いを持っての言葉ではないかという気がしている。
できればなんて遠慮がちに言わなくてもいい、心の願いを、願望をそのまま自分にぶつけていい、すがりついて頼っていいんだ、むしろもっともっと頼って欲しい、イエスはそんな風に思っているんじゃないかという気がしている。