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礼拝メッセージより
変貌
1節は9章よりも8章との繋がりがあるようだが例によってなんのことだかよくわからない。
2節になるとイエスと3人の弟子が高い山に登っていく。イエスはよく祈るために高い山に登った。そこでイエスの姿が変わり、衣が真っ白く輝いたという。
そこにエリヤとモーセが現れ、イエスと語りあったというのだ。
モーセはユダヤ人をエジプトからカナン、今のイスラエルのある所まで導いて脱出させた人。この人は旧約聖書の出エジプト記によると神からさずかった十戒を持って山から降りてきた時に神の栄光を受けて顔が輝き、そのために顔に覆いをかけたなんてことが書かれている。(出34:30)
エリヤは旧約聖書に登場する有名な預言者。列王紀下2:11に「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。」と書かれている。この彼らとはエリヤとエリヤの弟子となったエリシャのこと。ユダヤ人はエリヤは死なないで天に上っていった、そしてやがてまたやってくると言われていたようだ。エリヤはモーセ以降の最大の預言者と考えられてそうだ。
そんな偉大なエリヤとモーセが出てきたので弟子たちは驚き、恐れた。ペテロは思わぬことを口走る。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。すばらしいことです、とは言っているが気が動転してのことばだったらしい。
その後、雲が現れ雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声がした、ことが書かれている。1:11でも天から声がして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われている。旧約聖書でも神が雲の中にいるようなことが書かれていて、モーセが十戒を授かったときにも、その時にも山の上での出来事だったけれど、その山を雲が覆っていたと書かれている。
聞け
今日の箇所でも山の上で雲の中から声が聞こえてくる。つまりそれは神の声ということで、神自身がイエスは神の子である、という証言しているということだ。そして「これに聞け」という。
そののち弟子たちは辺りを見回したが、そこにはイエスしかいなかった。そして山から降りてくる途中、またもや、このことを復活までは誰にも言うな、と命令する。
仮小屋
当時イスラエルはローマ帝国に支配されていて苦しい生活を強いられていたようだ。そんな中でユダヤ人たちはやがてメシア、すなわちキリストがやってくる、かつてのダビデのような王がやってくる、そして自分達の国を再び強い国にしてくれると期待していたようだ。
ユダヤ人である弟子たちも同じような思いを持っていたのだろうと思う。そして自分達の師匠であるイエスがそのキリストかもしれない、そうであって欲しいと思っていたのだろうと思う。
王になって権力握って自分たちの敵をやっつけてくれることを願っていたのかもしれない。輝く姿のイエスを見て、自分たちの想像するよりも、もっともっとすばらしい神々しい方であることにびっくりしたのだろう。そしてそのままの姿でいてほしい、ずっとその高貴な姿のままでいてほしい、そしてそんな願いから仮小屋を建てましょう、という言葉になったのではないか。
仮小屋の中にずっといてほしい、ここにくればいつでもその姿に会う事が出来るように、ここにいてほしいと思ったのだろうか。
ところがイエスは、このことを誰にも話すなという。復活までは。復活までは、ということはその前に死ぬということ、その前に十字架があるということだ。
十字架の姿は全然かっこいいものではなかった。光輝く顔をしてはいなかった。そしてイエスの姿の中には、十字架の上で苦しむ姿もあった、そしてそれもイエスの本当の姿だった。決して輝く姿だけがイエスの姿ではない。十字架の姿こそがイエスの本当の姿ということなのかもしれない。
人間の側
人は神に何を望むのか。どんな姿を望むのか。普通は栄光に輝くりっぱな姿を望むだろう。しかし、イエスはそんな姿では現れなかった。イエスは力を持って高い所から、つまり人間とは違う世界から人間を支配しようとはしていない、ということだろう。
イエスの十字架の姿は仮の姿ではなかった。それがまさにイエスの姿そのものだった。十字架で死ぬまで人間のままだった。苦しんで絶叫してまでそうだった。そうしてまであくまでも人間の側にいた。人間であることにこだわった、つまりそうまでして私たちと同じ所にいようとした。
なにかあれば神の側にいけばよかったのに。いざとなったら私は神だ、というところを見せればよかったのにと思う。十字架につけられる前に、あるいは十字架につけられたとしても、そこから降りてきて、自分の力を見せればよかったんじゃないかと思う。
しかしイエスはそんな人間離れした力を見せることによって、人間の側から離れることをしなかったということなんだろう。水戸黄門は最後にはかつての副将軍にもどって庶民の側にはいなくなってしまう。でもイエスは最後の最後まで人間のまま、人間の側にいた。私たちの側にいた。
復活
この出来事は本当にあった出来事なのだろうか。そう考える学者もいるそうだけれど、多くの聖書学者は復活後のイエスとの出会いを生前のイエスに投影した教会の信仰告白と考えているそうだ。
僕は以前は、服が真っ白になったり、モーセやエリヤが現れたり消えたり、不思議な話しだけれど、聖書に書いてあるから本当にあったことなんだろうと思っていた。思っていたと言うよりそう思わないといけないと思っていた。でも今は無理にそう思う必要もないというか、無理に本当だと信じないといけないと思う必要もないと思うようになった。
今ではこれはやっぱり教会の信仰告白なのではないかと思っている。イエスこそ神の子である、旧約聖書で約束されていたキリストである、我らの救い主であるということをこの物語を通して伝えようとしているのだと思う。
弟子たちもイエスがキリストであると分かったのは十字架の後に復活のイエスと出会ってからだろうと思う。その出会いもイエスが実際に目の前に現れたというものではなく、心の中に現れた、心の目で見た、そんな出会いだったのではないかと思う。
これに聞け
ペテロは輝くイエスを見たときにすばらしいことだ、と言ったと書いてある。でも本当はイエスが人間の側にいてくれていることこそ、すばらしいこと、そしてこのイエスに聞くことこそ、すばらしいことなのだ。きっと。
ローマの信徒への手紙10:17
「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。
今日の話の中で一番言いたかったのは、これに聞け、ということではないかと思う。これに聞くこと、イエスに聞くこと、それこそが一番大事なことだ、と伝えたいと思っているのではないかと思う。
聞くことが信仰の始まり。イエスに聞くことからすでに信仰は始まっている。イエスの言葉を聞く事がすでにすばらしいことなのだ。
私たちはイエスの言葉を聞き、その言葉に支えられて生きていく、それこそが私たちの信仰なのだろうと思う。