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礼拝メッセージより
神がいるなら
大きな災害が起こるような時によく、神がいるならどうしてこんなことを許すのかというような声を聞く。どうしてなんだろうと考えても分からないというのが正直な感想だ。
でも最近、神が災害を許すのはおかしいと思うのはどうしてなんだろうか、神はそんなことしないはずだと思うのはどうしてなのか、そういう時の神とはこういうものだという神のイメージはどこで持ったのだろうか。誰から聞いたのだろうか。結構自分勝手に思い込んでいることが多いんじゃないかと思うようになった。
何者?
イエスは「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」と弟子たちに聞く。弟子たちは「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、預言者の一人だと言う人もいる」と答えた。
この時、洗礼者ヨハネは当時ユダヤ地方の総督であったヘロデによって処刑されているので、そのヨハネが生き返ったと考えた人がいたということらしい。
エリヤは旧約聖書に登場する預言者。旧約聖書ではエリヤは生きたまま天に上げられたと書かれていて、再びやってくると期待されていたそうだ。預言者とは神の言葉を預かって民に伝える人のことだけれど、イエスがエリアとは別の預言者であると考える人もいたようだ。
そこでイエスは質問する。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」。するとペテロが。「あなたは、メシアです。」と答えた。
メシアとはヘブライ語で油注がれた者という意味で、旧約時代では王になるものに油を注いでいた。そのメシアをギリシャ語に訳すとキリストとなるそうだ。
ユダヤ人たちはやがてメシアが来てくれると期待していたようだ。そしてそのメシアは王として、まわりの国の支配から自分たちの国を解放してくれる者、そして強力な国にしてくれる者と思っていたらしい。メシアとはもともとはそういう形での救い主ということだったようだ。
新約聖書ではイエス・キリストと言って、イエスはキリストである、救い主であると言っているので、それを知っている人にとっては、ペトロの答えが全く正しい答えのように思う。でもこの時イエスはペトロに対して正しいとも間違っているとも答えていない。ただ、自分のことを誰にも話すな、と命じただけだ。どうして話すなと言ったのだろうか。
予告
それからイエスは、人の子は苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日後に復活するなんてことを話しはじめる。人の子とは誰のことなのか。話しの流れから言うとどうやら自分のことを人の子と言っているようだけれど、どうして人の子なんて言い方をしたのだろうか。
また長老や祭司長、律法学者から排斥されて殺されると言っているけれど、排斥されるってどういうことなんだろうか。
そして殺され三日後に復活するなんて言っているけれど、そんな具体的なことまでこと分かってたんだろうか。
するとペトロがイエスをわきへ連れていっていさめはじめたと書いてある。この「いさめる」と訳されている言葉は「しかりつける」とか「激しく命じる」というようなかなり強い言葉だそうだ。
イエスはそんなペトロに「サタンよ、引き下がれ」なんて言っている。サタンとは悪魔とか、邪魔者、妨害者みたいな意味もあるそうだ。それに対するペトロの返事は書かれていない。さすがにペトロもきついことを言われて、言い返すこともできなかったのかもしれない。
メシア
あなたはメシアです、と正しい的確な答えをしたようなペトロだったけれど、ペトロの思い描いていたメシアのイメージと、イエスの姿とは全く別物だったということだろうと思う。
ユダヤ人たちが期待していた、かつてのダビデのように自分達の国を、外国からの支配をはねのける強い国にしてくれる、そんな立派な王を、ペトロも期待していて、そういう意味でのメシアという言い方をしたのではないかと思う。
だからこそ、イエスが自分はやがて殺されるなんて話しを聞くと、そんなこと言っちゃダメだ、そんな弱気じゃだめだと言ったんだろうと思う。
痛みをかかえつつ
その後イエスは「わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失うものは、それを救うのである。」なんてことを言う。
そんなこと言われたら従いたくなくなってしまいそうだ。イエスは一体何を言っているんだろうか。
自分の十字架を背負うとは、自分の痛みや苦しみをしっかりと背負っていくということと思う。
あの時あんなことをしなければよかったとか、あの時はこうすれば良かったんじゃないかとか、思い返すだけで心がちくちく苦しくなるような思いがいっぱいある。
あるいは病気になったり、怪我をしたりなんていう身体の痛みもあったりする。治せるものであればいいけれど、ずっと抱えていかないといけないものもある。
自分の持っている弱さ、だらしなさ、自分自身で嫌っている自分の嫌な性格、そんなものも無理に克服しなくてもいい、克服したかのように威張るのではなく、克服できない弱さや痛みを持っていることをわきまえて、それを誤魔化さずに、しっかり抱えて生きなさいということでもあるんではないかと思う。
そんな心や身体の痛みや苦しみを誤魔化すのではなく、なくせないといって嘆くのではなくて、背負って生きなさいということかなと思う。過去の失敗や挫折や間違いも、なかったことにするんじゃなくて、そんな痛みを抱えて生きなさいということではないかと思う。
イエスは痛みや苦しみを抱えつつ生きている者たちと共に生き、その痛みや苦しみに共感して生きてきた。そして自分が十字架につけられるまで、その人たちの味方であった。
私たちも生きている中では痛みも苦しみがいっぱいある。神とはそんな痛みや苦しみを取り去ってくれる方であるはず、それこそが神だという気持ちがある。でもそれは案外自分が勝手に想像している神の姿であるのかもしれない。
私たちは痛みや苦しみと無縁の世界に生きることはできないようだ。しかし私たちは決してひとりぼっちではない。一人で痛み、一人で苦しむことはない。そこにイエスはいてくれている。イエスはそんな救い主だ。痛み苦しみを抱えつつ生きている私たちとどこまでも共にいて、共に痛み苦しんでくれる、そんな救い主なのだ。